見出し画像

「ミレイユの右へ」13

第十三回 責任


 一瞬の静寂。
「だけど」と、耕がぼつりと言った。
「俺は何だか責任を感じる」
「……それは、あれだな、男としてのアレだ。それは感じていい」
「あたしだって感じる」
 久埜が我慢できずに言った。
「それは友達として当然だが、総じてこれは事故なんだから、必要以上に感じなくてもいい」
「必要な量ってどのくらいよ!」
 涙ぐみ始めた久埜を見て、文太は溜め息をついた。
「お前らは、どうしてこう素直に親の話を聞けんのか。反抗期か? 積木くずしか?」
「あー、とにかく」
 事故に一切無関係である長男の昭が、何か慮ったのか場の雰囲気に反したのんびりとした声を上げた。
「飯を食おう。腹が減った」
「……だな」晴彦も同調する。
 皆で一斉に黙々と食事を始め、いつも通りにおかずが見る見る消費されていった。
 昭の飯のお代わりをよそいながら、頃合いとみたのか、富実が口を開いた。
「絢ちゃんの傷だけど、縫合が具合よく行って傷跡は目立たないだろうって」
「本当?」
「蕗子さんが、伊々田先生から聞いたそうよ」
 それが本当ならと、久埜は安堵したが、
「でも、いつ頃から目立たなくなるの?」
「え? あーそれは、どうしても、すぐっていうわけには……いかんやろうねえ」
 やっぱりか、と思う。
 何しろ思春期なのである。それは気になるだろう。気にするなという方が無理に違いない。
 あたしだって、きっと気になる。ましてや、絢は土台があの美貌である。
 何だか溜め息が出て、久埜は箸を置いた。
「ご馳走様」
「……食わんと元気が出んぞ」
 晴彦がそう声を掛けたが、そういう類いのいつもの体育会系の思考形態が今日は特に癪に障って、久埜は自分の部屋へさっさと籠もってしまった。
「もう寝るき、来(こ)んどって」
「……分かった」誰かが返事をした。
 寝ると言っても、まだ八時過ぎなのだが、誰も突っ込まない。
 その後、何時にないひそひそ声で話し合いが始まった気配がしたが、久埜は布団を敷くと、ヘッドフォンをつけて寝転がり、それを遮断した。
 ラジカセのスイッチを入れると、絢のテープのコピーが入っており、あのアイドル歌手の歌声が流れ始めた。
 ……ねえ……言えない言葉、あなたの背に書いてもいい?
 何度も何度も聞いていて、詞は全部覚えてしまった。
 最初分からなかったが、どうやら大学の卒業式の後で二人だけで会食をしている恋人達の情景を歌ったもののようだ。
 ……大学かあ、と思う。何が習いたいわけでもないので、何を目的にどこへ行く等も具体的にはさっぱりイメージできない。
 行きたいのかどうかも分からない。
 そもそも、勉強が好きなわけでもないし、相当のめり込まないと今更成績も上がりそうもない。
 絢くらい自分も美人だったらなあ、とも思う。そうすれば、もっといろいろな道が開けるのかもしれない。
 モデル……とか?
 いっそ、アイドルとか?
「……いやいやいやいや!」急に胸が苦しくなって久埜は跳ね起きた。
 そんなのは所詮夢物語であり、全然地に足が付いていない。
 つまり、例の「基本」がないではないか。
 それから、今までのもやもやした不安感と、よく考えたらそのアイドルにだって一番近そうな絢の不幸と、下手をしていたらもっと大怪我をしていたのかもしれないという恐怖とが綯い交ぜになって一気に襲ってきた。
 ――これは眠れない。
 じっとしていたら、ずっとこの状態が続きそうな気がして久埜は起き上がった。
 外の空気を吸おうとして少し窓を開けると、何時になく灯油の匂いが微かに漂ってきた。
「何で……?」
 見ると、隣家の物置との隙間に、いつの間にかドラム缶が一本突っ込んであった。
 久埜の部屋は段差の上にあって、人の頭が丁度窓の下縁にくるような作りであった。
 今まではそこから外に出ようなどとは全く思わなかったのだが、これは……そうしたいと思うならば、恰好の足場である。
「ここから、いつでも外へ出られるな……」と漠然と考える。
 履き物がいるなと考えを巡らせて、部屋に新品のスニーカーがあるのを思い出した。
 今度、何かで絢とお出かけする時に履くつもりだったのだが、箱から出した取って置きの黄色いそれを見ていると、何だか闇雲に今履きたくなった。
 手早く着替えて、パーカーを羽織るとスニーカーを履いて窓から外に出た。
 特に物音もしない。
 ドラム缶は灯油が詰まっているのか、微動だにしなかった。
 家の裏手は隣家であるが、短い私道の先は繁華街へと続く路地である。
 行く手には飲み屋の看板や、ネオンの煌めきが見えているが、久埜はパーカーのフードを被ると、靴の感触を確かめるようにして、ゆっくりと歩き出した。

 ……しばらくして、久埜の部屋の薄いドアがじわりと開いた。
 富実が一応久埜の寝顔をチェックしておこうと覗いたのだが、薄暗い室内には空っぽの布団が敷かれているだけで、久埜はいなかった。
「あっ!」富実の絶叫が家中に響いた。
「久埜がおらん(いない)!」



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?