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「ミレイユの右へ」01 

第一回  天使


 寺の名物である藤棚の様子を見回り終え、老住職はいつも通り山門の方向へ足を向けた。
 移動する小学生の甲高い歓声が、門を下った先の駐車場の辺りから聞こえてくる。
 そう言えば、そろそろお昼時だなと思った。
 地域の小学校の春の遠足で、昼の弁当を広げるのがこの寺の境内というのは、何時の頃からかも、もはや定かでないくらい繰り返してきた常例行事である。
 戦後のベビーブームで子供が溢れかえり、休憩場所やトイレの相談を知り合いだった校長から受けたのが始まりで……。
「そう言えば、あれは、いつ頃だったっけ?」
 いかんいかん、思い起こしがすっかり悪くなったわい、と自嘲して石段を降りていくと、リュックサックを背負った少人数のグループが、おそらくは担任の教師から何かの説明を受けているようだった。
 四年生くらいだろうか。
 子供達の視線の先には立柱石碑、所謂「戒壇石」がある。
「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」と刻まれているもので、禅宗の寺ではよく見かけるものだ。
 意味としては、酒と香りの強い野菜、つまり大蒜やニラなどは修行の妨げになるので、この先への持ち込みを禁ずるということである。
 昭和ももう五十九年、昔の子供と違ってすっかり垢抜けた恰好のそのグループが、何となく納得のいかないというような表情をしたまま、ゆるゆると解散しだした。
「先生は上の藤棚のところにいるからね。集合場所も同じ」
「はーい」
 お弁当を一緒に食べようという友人同士なのだろう、さらに小分けになって、住職の方へは三人組の女子が連れ立って登ってくる。
 そのうちの一人が、ふと足を止めてもう一つある立柱石碑の方を見やった。
 それは多分江戸時代末期から建っている女人結界を表すもので、実際にはもう寺は開かれておりそういうことはないのだが、女児から訊かれると何だかその経緯を話すのが、えらく面倒くさい気がする。
 ウーマンリブこのかた、宗教界はどこも肩身が狭かったものだ。そういう世代の教師に今は教えられているわけだから……。
「お坊さん、質問があります」
 そら来た、と思った。昔の禅寺の生活などを小学生にうまく伝えられるかと身構えていると、
「何で、ニンニクとかニラを持ち込んではいけなかったんですか?」
 ……え?
「そっちか!」と、思わず口をついて出てしまった。
「えっ?」質問をした丸顔の子がきょとんとする。
「……ああ、いや」
 妙に狼狽えてしまい、何時になく精神面での衰えも感じてしまう。何をしどろもどろになっているのか。
「早紀《さき》ちゃんのおうち、中華料理屋さんやもんね」
「うちのニラレバー、おいしいよー」
 咳払いをして、葷酒のうち酒はもちろん心を乱して修行の妨げになるのだが、香りの強い野菜もいらぬ精力がついて、心静かに一日を過ごすことが大事な寺の修行生活には良くないということを、なるべく噛み砕いて説明した。
「納得していただけたかな?」
「はい! お酒に関しては、全くそうだとしか思えません。あれは、心を乱しますね。というか、碌なもんじゃありません。人間をダメにします」
 一人が鼻息を荒くしてそう言った。
「久埜《ひさの》ちゃんち、お酒屋さんじゃないの。家業でしょ、カギョウ。そんなこと言っていいの?」
「カギョウでもサギョウでも、やっぱり好きにはなれんわー」
「……でも、ニンニクは精力をつけてくれるんだから、より一層修行に集中できるんじゃないの?」
 どうも、中華料理屋の娘は納得ができていないようだった。
 精力がつくと男がどうなるのかなんてことは説明する気は毛頭なかったので、住職は「では、よろしいか」と言って、石段を降りて行こうとした。
 すると、二人の影に隠れるようにして立っていたもう一人が、
「あのう、昔は女の人はお寺の境内に入れなかったんですよね?」と、言い出した。
 思わぬ時間差攻撃に、つい立ち止まってしまい、しげしげとその子を見た。
 実に普通の小学生女児である先の二人と違って、既に美貌の片鱗を見せる面立ち。
 半ズボンからすらりと伸びている下肢の感じ、肩口、腕の回し方。
 田舎にたまに現れる、場違いな美少女だ。
 住職には、この先その子がどんな感じで成長していくのか、ありありと予想できた。
 住職の子供の頃にそんな子がいて、完全と言っていいほど忘れ切っていた甘酸っぱい何かが、御しきれない勢いで胸の内に蘇ってきた。
 性欲などではない。……それはむしろ抑圧できる。……もっと別の、根源的なものだ。
 人が人を求める何か?
 人が人に求める何か?
 こんな感じで修行を邪魔されたから、古人は結界なんて作ったのだなと今更ながらつくづく実感できた。
 ため息をつき、最初に用意しておいた質問の答えをそのまま言いかけると、今度は途中で遮られた。
「いえ、そういうことではなくて」
「うん?」
「男でも女でもない人はどうなるのでしょう? ……ということを聞きたかったんです」
「……ほう? 男でも女でもない?」
「例えば、キリスト教の天使様は性別が無いと聞きます。天使様が寺の戸を叩いたら中へ入れてくれたのでしょうか?」
 子供の戯れ言と片付けるには面白すぎた。未だかつて、そんな問答が行われたことがあるのかどうかを考えると、住職は急に愉快になった。
「……まあ、天使様をそのまま追い返すわけにはいかんだろうなあ」
 住職は微笑んで、顕現した天使そのもののようなその少女を見つめた。
「儂にもよく分からん。今度、よく話し合っておくわ」

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