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「ミレイユの右へ」10

第十回 キャッチボール



 ビートルズ談義は続いていたが、さすがに話題が尽きてきたのか、耕の流暢さが些か怪しくなってきた。
 久埜も、会話に参加できるほどの蘊蓄がもう種切れで様子見だった。むしろ、半ばわざと口を出さないで二人の話の漂流を楽しんでいると、トントンと足音がして晴彦が二階から降りてきた。
 ジャージ姿で、軟式用のグラブとミットを持っている。
「ちょっと、外に出てキャッチボールせんか?」
「いいね」
 助け船なのか、単に自分の腹ごなしがしたかったのかは不明だったが、耕はすぐに誘いに飛びついた。
 久埜は前者だと踏んだが、兄妹ながら妙な男気を感じて、晴彦を少し見直すことになった。
 この周辺でボールを投げられるような広場というのは、絢の家の近くにしかない。
 つまり、自然と送っていくことになるのだった。
 久埜も付き合うことにし、四人で家を出ると商店街の中を午後の日差しを浴びながら、のんびりと歩いた。
 やや活気がないが、それでも人が行き交い、物が買われ、営みのある風景だ。
 総菜屋にはいつも通りに手を加えられた様々なおかずが並び、豆腐屋からは炊いた大豆の匂いが漂う。店の奥では豆を浸漬させる作業の声がする。
 久埜にとっては、見慣れた……あるいは見飽きた光景ではあった。
 商店街が途切れた先の、小さな交差点の角に四人共が幼児期から通う駄菓子屋がある。
 ここの女店主が久埜の母親の友人で、蕗子というのだが、「蕗おばちゃん」と呼んで池尻家の兄妹は皆特に慕っていた。
 その前を通ったが、奥に引っ込んでいるのか蕗おばちゃんの姿は今日はなかった。
 やがて、これもお馴染みの児童公園が見えてくる。
 今日は幼児の姿はなく、キャッチボールをやっても支障はなさそうだった。
「まだ、時間あるん?」
「全然、大丈夫」
「ベンチ座ろう」
「うん」
 誰かが寄贈したらしい手作りの木のベンチは妙に狭苦しく、絢と二人でくっついて座った。
「ふふ」
 機嫌がいいのか、目を細めて絢は耕の方を眺めていた。
 耕の方はその視線にあからさまに気づいた風だったが、軽い投げ合いから距離を取っての本格的なキャッチボールになってくると、さすがに野球部員らしくそちらへ集中しだした。
 グラブを胸元にセットし、右足の内側を晴彦に向けて前へ出し、左足を腰の位置にまで上げる。そして、右手のテイクバック時に左足を相手の方向へ踏み出し、体重を乗せスローイング。
 文太に徹底的に仕込まれたこともあるが、美しい一連の動作だった。
「キャッチボールって言っていたから、ただポンポン投げ合うだけかと思っていたんだけど、違うんだね」と、絢。
「野球の基本中の基本……なんだそうよ。ボールコントロールの基礎」
 文太の受け売りである。
「……キホン」
 抑揚が人形の喋るような感じで、心がどこかへいっているようだった。……また、絢が何かややこしいことを考え出したような予感がしてきた。
「私達の基本って何だろうね?」
「私は……」
 丁度、最近胸の中で閊えていたことを訊かれた気がした。
「まだ、何にも出来ないし……」
「え?」
「何を基本にして行くのかも、自分でよく分かっていないんだよね。早紀ちゃんなんかは、本当にしっかり考えて、もう何か掴んでいるんだと思う。あの子、家業にプライドを持ってるよ」
「……」
「あたしは、ダメだよねえ……」
「あたしも同じ」
「え?」
「いろいろ、今本当にモヤモヤしていて未来が見えない」
「そうなの? そうそう、それ私も同じ。正にそんな感じ」
「でもね」
「……?」
「未来が見えちゃったら面白くないかもよ?」
 なるほど……と、ストンと腑に落ちた気がした。
 きっといつかは何か面白いことを見つけられるし、そうなったらそれに熱中してみよう。視界が開けるのは中学生になってからでも遅くはないのだろう。
 ……多分。
 しかし、今現在が面白い状態なのかどうかは、さっぱり分からなかった。

 いつの間にか、ピッチャー志望の耕の球《たま》を、晴彦がしゃがんで受けていた。
 本気のスピードボールがミットに吸い込まれ、独特の革の弾けるような甲高い音が響く。
 綺麗に投げられて、軟式ボールがシューッと唸りを上げると、絢はそれが気に入ったのか、目を輝かせて喜んでいた。
「凄い凄い、あんな音がするんだ!」
 気が済んだのか耕に合図をして晴彦は立ち上がり、ベンチの方へやってきた。
 ボールの音のことを話すと、
「硬式ではあんまり鳴らないんだ。ボールの回転する音だよ」と、教えてくれた。
「喉渇いたなあ」と、汗びっしょりの耕が遅れて来る。
「四人か……」晴彦はジャージのポケットをまさぐっていたが、
「あの、安いコーラなら飲めるな」
「駄菓子屋にしかないアレか」
「やったあ、行こう行こう」
 少し引き返すことになるが、久埜は絢を促して、駄菓子屋へ向かった。

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