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「ミレイユの右へ」09

第九回 カレーとビートルズ



 案の定、耕はCDの貸し出しはOKだと答えた。
 そのまま、預かって手渡ししても良かったのだが、
「今度、久埜のところに行ったときに、お兄さんにちゃんとお礼を言ってから借りたい」
 とのことで、CDはきっちり纏められたまま、耕の本棚の一番目立つところで出番を待つことになった。
 日曜日の昼過ぎ――。
 この日は、商店街の寄り合いで両親は留守。店も休みで、家には久埜と耕、次男の晴彦がいた。
 長男の昭《あきら》は、姿が見えなかった。が、いつも邪魔に思える派手な黄色のヘルメットが見当たらない。手に入れたばかりの原付バイクでどこかへ出かけたのに違いなかった。
「いつも野球の時以外は、ゴロゴロしているくせに珍しいな」と晴彦。
「まさか、デート……とか?」
「無い無い。このスクーターブーム全盛の折に、対極の労働バイク、スーパーカブですよ」
「……そもそも二人乗り出来んちゃ」
「七月から施行されたヘルメット義務化もいかんとよね」
「そうそう」
 少し前までは、ノーヘル可で原付でしか味わえない自由さがあったし、エンジンも馬力があったのでかなり飛ばせた。そこが良かったのだが、いろいろと野暮な規制が入ったのが気にくわないと、男二人はかなりの長時間愚痴っていた。
 久埜は何となく聞き耳を立てながらテレビの漫才を眺めていたが、正午をかなり過ぎているのに気づき、空腹を憶えて立ち上がった。
「鍋にあるカレー食べよっと」
「俺も」
「俺も」
「温めるから、自分たちで注《つ》いでよ」
 池尻家のカレーは、いつも挽肉と玉葱だけのカレーで、各人好みの物をトッピングしてルーをかけるルールだった。
 久埜は昨日の夕方、早紀の店から唐揚げを買ってきていたので、それを乗せてルーをかけまたテレビの前へと戻ってきた。
「え? 俺たちの分は?」
「無い無い。だってこれ、お小遣いで買ったあたしのおやつだったんだもん」
「えー、何もないじゃん。具無しかよ」
「……」
 晴彦はちょっと考えていたが、店の方へ行って、酒の肴用の魚肉ソーセージを持ってくると台所へ行き、包丁で斜めに切ってフライパンで炒め出した。
 ……意外といけるかも、と久埜が思っていると、冷蔵庫を漁っていた耕は納豆のパックを持って、何だか悩み深そうな顔つきで、こちらへ歩いてきた。
「……これ、どう思う?」
「さあ? まさか、それを?」
「何事も挑戦だ」
 まだこの食文化は全く一般的ではなかったので、誰にもどんな味になるのか想像できなかった。
 ルーに混ぜ込んでご飯にかけたが、
「……むっ!」一口頬張って耕が呻いた。
 やはり無謀な挑戦だったか、と晴彦と久埜は同情心を憶えた。それでなくても、耕は突っ走ってからの自爆が多い。
 野球でもそうだった。この間もオーバーランして……。
「結構うまいぞこれ」
「本当か?」
「無理してるんじゃないの?」
「マジだって」
 そう言って、さらに口の中に掻き込んだとき、
「ごめん下さい」と、店の方から声がした。
「あれ? 絢ちゃんの声だ」
 途端に耕は大きくむせ込んで、両手で口を押さえて台所の方へ走っていった。
「……分かりやすい奴だ」
 晴彦はそうつぶやいて、残りのソーセージをうまそうに頬張った。

 絢が茶の間に座っていると、いつもの煤けた家の中が何だか明るく感じる。
 これがオーラとかいうものだろうかと久埜は思っていたが、傍らでは耕が全く普段と違う感じで多弁気味にビートルズについて解説していた。
「……そんなわけで、ボクは中期のサイケデリックなテイストの奴が特に好きです。『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』なんかですね」
「なるほど」
 絢がまたいちいち律儀に反応するせいもあって、さらに熱も上がった。
「ところで」
 絢が、ちらりとこちらを見たような気がした。
「『イット・ウォント・ビー・ロング』なんですけど」
「ああ、ジョンとポールによる最初の自作の曲です」
「詞の方は?」
「それも二人で作ったんじゃなかったかな。原型はジョンのはずだけど」
「どんな気持ちで作ったんでしょうね?」
「……うーん? そこまでは分からないなあ」
「確かその頃ジョン・レノンは二十三才。前年、シンシア・パウエルと結婚しているわ」
「デビュー時期だったので、妻がいることは公表されなかったんだよな」
「へえ、知らなかった」久埜は思わず割って入った。
「オノ・ヨーコさんだけかと思ってた」
「……だから奥さんになかなか会えなかったのかな?」
「でも、詞を見ていくと相手がどこかへ行ってしまっていたのが、ようやく帰ってきてくれる、といった感じですよね」
「自分と相手を入れ替えているのかも?」久埜が思いつきを言うと、
「それかも!」と、二人して目を輝かせて強く頷いた。




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