九州=「辺境」から、まだ見ぬ「辺境」への伝承――ばってん少女隊『九伝』考
約二年前に『九祭』について書いたぶりだが、またアルバムが出たので。
できるだけ早めに書こうと思っていたのだが、早くもリリースから一週間以上が経ってしまった。言い訳としては、研究者としての本業にかまけてしまっていたことが一つ。そしてそれ以上に、ここに書くことを慎重に考えたいこともあって。
というのも、このnoteに書いている記事は、日々の希望とアイデア創出のための触発を与えてくれる存在に対する、頻繁に現場に参加することのできない私からの感謝の言葉でもある。特には、今週末(というより、この記事を公開した日はすでに一日目の開催日)に控えているスタパ(Stardust The Party)が終わってしまえば、ばってん少女隊を初期から支えてきた瀬田さくらさんの卒業がすぐそこになってしまうため。
※ちなみに私は2016年の「俺の藤井〜Tynamite!〜」(の映像)でばってん少女隊を知ってからというもの、瀬田さん推しです。とはいえ、一人だけに絞るのは心惜しいので、ペンライトを持つときはその日の気分に合わせて紫+他色の二刀流にしています。
彼女らが発表した作品に対して敬意を込めたコメントをするためにも、少しでも良いことを書いてみたいという思い(カッコつけとも言う)があるために、投稿に時間がかかってしまった。
手始めに、全体的な印象として
端的に言えば、前作『九祭』に引き続き、アルバム全体を通して何度も繰り返し聴きたくなる一枚。
ただ、アルバム初出の曲が前回と比べて少ないこともあってか、また曲それぞれ単体の破壊力・インパクトが前回よりは感じられないこともあってか、アルバム自体の魅力としては前作と比べてしまえば小さくなっているという印象が強い(もっとも、前作の出来があまりにも良すぎた(ように私は思っている)ことが大いに関係していようが)。
アルバムデザインに込められた思惑
繰り返しの視聴を可能にする、歌詞の「開かれ」
ただし上記の評価は、あくまでそれぞれの曲単体をまなざした際の印象からくるものにすぎない。
先に書いたように『九伝』は、全体を何度も繰り返し聴きたくなるような設計になっている。そしておそらく制作者側も、そのことを見越して制作している。
具体的に見てみれば『九伝』収録曲数は10曲であり、平均からはそれほど遠くないとはいえ、総再生時間でいえば40分にも満たない(約37分)。比較として前作『九祭』を見てみても、収録曲数12曲、総再生時間は45分程度である。
試みに、事務所の先輩であるももいろクローバーZの最新アルバム『イドラ』を例に出してみると、収録曲数は15、総再生時間は1時間3分というボリュームであり、『九伝』の約2倍の長さとなっている。
しかしこのように比較対象を設定してみれば、『九伝』が比較的小さいボリュームで作られていることの意味も見えてこよう。
ももクロ『イドラ』の場合、《序章-revelation-》から始まり最後には8分を超える大作《idola》が締めるという、アルバム一枚を通して一種の儀礼のような重厚な物語が展開される。これを一枚通して聴くには、それなりの時間的余裕とエネルギーを要する(だからこそ生まれる体験があるということは言うまでもないが、《イドラ》の感想はまた機会があれば書くこととしたい)。
一方で『九伝』は、一枚を通して聴くための労力が比較的少なくて済む。しかしその意味でのストレスの小ささは、決してアルバム自体の魅力と比例しない。アルバムを一周する時間・労力が少ないからこそ二度目・三度目の視聴に誘われ、そうして繰り返し聴いていくことで新たな解釈が試みられる、という視聴者の行為が期待されていよう。
ちなみに、ポップカルチャーの用語では「スルメ曲」と言われるような、(聴いてすぐには意味がわからなくとも)聴けば聴くほどその良さがわかるようになってくる現象は、『薔薇の名前』で有名なウンベルト・エーコや、ヴォルフガング・イーザーという美学者によってすでに言語化されている。
たとえばエーコは、ある作品を繰り返し鑑賞することで新たな感動が生まれなくなってしまう状態のことを「飽和状態」と呼んだ。逆にその「飽和状態」に至るまでに発見する、作品解釈の可能性のことを「開かれ」と呼んでいる。特に現代芸術と呼ばれるような作品は、制作段階からこの「開かれ」を意図的に多くしておくことによって、鑑賞者による積極的な作品解釈を引き出そうとする。
(参考)エーコ,ウンベルト『開かれた作品』篠原資明、和田忠彦訳、青土社、1990年.
またイーザーは、エーコが「開かれ」と呼んだものを「空所」と呼び、次のように言う。
敷衍すれば次のようになろう。
読者はテクストを読む中で空所を自分なりに埋めながら読んでいくのだが、その埋め方では物語が「なめらか」にならないため二度三度読み返すことになる。それはたんに「楽しみ」を得るためだけの読書という行為にとっては障害であるが、しかし同時に、解釈を深めるための刺戟を与えうる、という。
イーザーが上のように語るのは読書という行為に関してであるが、同様のことは文学に限らないあらゆる芸術鑑賞に言えるだろう。
そうであれば、『九伝』のボリュームの小ささは、それぞれの曲で歌われるテクストや曲同士の連関における「開かれ」あるいは「空所」を埋めるための行為をうながすためのデザインとして理解されうる、というよりされるべきなのではなかろうか。
解釈行為を可能にするもの――文学的要素による
そこでまた注目したいのが、収録曲で歌われている神話的な幻想世界、その解釈のしにくさである。収録曲のほぼすべてに日本神話からの借用、または民謡からの借用が見られ、そこでは人間世界と神的世界とのはざまが曖昧になった幻想的な空気感が漂っている。
まず新曲の《it’s 舞 calling》を確認してみれば、「天孫降臨」や「高千穂峰 天降ります」などといった歌詞は、記紀神話におけるニニギノミコトをモロに想起させる。
一方で「始まりますよ未知なるストーリー 無駄じゃないよこれまでのヒストリー」といった部分は、「天孫降臨」によって始まった神話がここ日本で受け継がれていることを表象していると見ることもできるし、「ストーリー/ヒストリー」をこれまでばってん少女隊が隊員たちと築いてきた物語/歴史として受け止めることも可能であろうし、また視聴者それぞれの体験と絡ませたかたちでの受け取り方もできる。そうして聞き手によっても、聞き手の時々の状況によっても曲から想起されるイメージにはおのずから差異が生まれ、それぞれの解釈を埋め合う行為へと鑑賞者は導かれていくことになる。そのために、収録曲は何度も聴かれるようになる。
ただし、誰もがそのような深い解釈行為に踏み出せるわけでもない。
このことは、《でんでらりゅーば!》における次の部分がうまく言い表している。
ここでは、人間世界と神的・霊的世界の境界である鳥居を「ぐるぐる」した後に、人が「アヤカシたちが集まってくる」幻想世界に引き込まれてしまう様が歌われている。原始的・前近代的な社会では人はそのような「人ならざるもの」に定期的に接していたが、近代化を経た後の現代人、とくに想像力・創造力を失ってしまった大人は、「人ならざるもの」を非科学的なものとして捨象してしまいがちである。「感じないようになってない? 最近」というわけだ。
翻ってテクストを解釈する行為は、ともすればただの暇つぶしに堕しかねない。それはつまり、あらゆるものにコスパ・タイパが求められる現代において、非科学的で前近代的なものと見做されかねないということである。しかし人間が真に人間らしく生きることとは、そのような「無駄なもの」を楽しむことにほかならない。
そうであれば、『九伝』(および『九祭』)で歌われる幻想世界における前近代的な体験とは、「無駄なもの」を削ぎ落とした現代社会において、あえて解釈困難な歌詞の波に飲まれ、なんとかして解釈行為を遂行しようとする隊員(およびすべての視聴者)の体験のアレゴリーとして用いられていると見ることができよう。そのような解釈行為に踏み出すには勇気が必要であるが、そこに至るための手がかりはすでに同曲内で示されている。
なお、《でんでらりゅーば!》の元ネタである手遊び歌「でんでらりゅうば」にはすでに、大人たちの価値観には適わない子どもらしい想像力・創造力を喚起させるものとして生まれたという考察がなされている。
解釈行為を可能にするもの――音楽的要素による
そしてその繰り返しの視聴を可能にしている手法についても、簡単に確認しておきたい。収録曲を最後まで聴いてもまた始まりに戻って再生ボタンを押してしまう行為を促しているのは、それぞれの曲で顕著に現れるループの構造であろう。
特には一曲目《トライじん》に顕著なように、ラップ、ヒップホップで多用されるループの構造が、収録曲にもふんだんに盛り込まれている(なおこの曲のMVでは、そのループ構造が視覚的にも表現されている)。これによって曲の区切りが意識されにくくなり、次の曲の視聴がスムーズになされることとなる。
以上のことを確認すれば、本作『九伝』は、繰り返し聴く中でこそ本来の真価を発揮するものであることが明らかになり、またそれを可能にした制作者側の手腕も意識されよう。
誰から、誰に、何が伝承されるのか
さて、以降は、アルバムのタイトルに冠された「九伝」という文字を手がかりにしてみたい。
すでにメンバー自身によって語られているように、ここに「九州の伝統」という意味が込められているのは明らかである。
日刊エンタメクリップの取材に対する、上田理子の応答は次の通り。
また春乃きいなも、スタプラブログにて次のように新作アルバム情報を紹介する。
つまり、タイトルの「九伝」とは、「九州の伝統」または「九州の伝承文化」の略として使われている(少なくとも、メンバーにはそう意識されている)ということになろう。
しかし私としては、「伝」の文字には「伝える」「伝承する」という動詞としての意味も込められていることを強調しておきたい。
もちろんこの考えは私だけが勝手に言っているものではなく、リード曲《My神楽》の作詞を担当したラッパー、ASOBOiSMが『九伝』のティザー映像で語っていたことでもある。
ではここで提起される問いは、「誰が」、「誰に」、「何を」伝承していくのか、ということであろう。
手前の二つ、「誰が」と「誰に」については、現時点では少なくとも二つの答え方が可能である。
瀬田さくら(はじめ現メンバー)が、今後のメンバーに
ばってん少女隊が、隊員(および観客)に
以下では、上記二つの「誰が」「誰に」の組み合わせにおいて「何が」伝承されるのか、そしてそれによって何が起こりうるのか、ということに言及しておきたい。
今後のメンバーに伝承されるもの
言うまでもなく瀬田さくらは、ばってん少女隊のかなり重要な部分を形成してきた。
いわゆる「ビジュアル担当」と称されるビジュアルをもち、またSHOWROOMやTwitter(現X)といったサイバー空間での情報発信交流にも積極的に取り組んできた。
《Oisa》以降、神道的なモチーフを全面に出した曲のヒットには、彼女が醸し出す妖しい雰囲気がかなりの程度影響していたであろう。
そのようにしてこれまでのばってん少女隊で活動してきた瀬田の言動、および彼女と共に少なからぬ時間を過ごしてきた現メンバーの想い、熱意といったものは、これから開催されるというオーディションを勝ち抜いて新たに加わるメンバー、そしてこれからのばってん少女隊に受け継がれることとなる。
現時点では、私にはこれ以上を語ることはできない。
私(たち)に伝承されるもの
では、私(たち)は『九伝』から、そして現在のばってん少女隊から、何を受け継ぐことができるのだろうか。
それは、端的には「九州の伝統」ということになろうし、または瀬田(および西垣有彩や星野蒼良も含めた、これまでのばってん少女隊)がこれまでの活動に込めてきた想いを継承することでもあろう。
そのことは、すでにばってん少女隊側から提示されているものでもある。
しかし私がここで考えたいのは、九州になんのゆかりもない私(=北陸地方の出身で、九州には足を踏み入れたことがある程度)が、果たして「九州の伝統」なるものを受け継ぐ資格があるのか、ということである。
ここで一つの懸念として持ち出したいのは、現代の文化状況でよく話題に上るようになった「文化の盗用(cultural appropriation)」である。
近年の最も話題になったもののうちの一つで例を出せば、2015年にボストン美術館で開催された「キモノ・ウェンズデーズ(Kimono Wednesdays)」というイベントがある。ここではクロード・モネの絵画作品《ラ・ジャポネーズ》に描かれた着物を着た白人女性と同じように、美術館内で日本の着物を着用し写真撮影をすることが推奨された。このイベントに対して市民から「文化の盗用」であるとして抗議運動が起こり、その熱は瞬く間に世界中に広がることになった。
「文化の盗用」を超えて
さて、上記に示した抗議運動およびさらにそれに対するカウンター抗議における論理性とその正当性はどれだけ認められるのか、というのが重要だが、今回はそこは本題ではないのでこれ以上突っ込まないことにさせてもらう。
ひとまず、九州にゆかりのない者が『九伝』を通して「九州の伝統」なるものを理解した気になる際には「文化の盗用」的な懸念がつきまとわざるをえないということが意識されればよい。
しかしここでごく端的に結論を示してしまえば、「それほど気にする必要はないのではないか?」というのが私の最終的な考えである。
というのも、「文化の盗用」という言葉が使われるとき、そこには必然的に文化の「所有者」がイメージされることとなる。そもそも所有者がいなければ、「盗用」することはできないのだから。
ではいったい、「九州の伝統」の所有者とは誰なのか。
「九州出身」であればよいのかと問われれば、では何をもって「出身」と言いうるのかの判断が必要になってくる。
また、「九州」と一括りに呼ぼうと思えばそう呼ぶことができるだけであって、実際にはそこには7つの県があり、さらにそこからより小さな地域区分に分けられることとなる。
たとえば熊本出身の者は《あんたがたどこさ〜甘口しょうゆ仕立て〜》で現れるモチーフを「所有」しているかもしれないが、《ヒナタベル》のモチーフではそうはいかないだろう。
このように「文化の盗用」を考えようとしても、誰が文化の「所有者」で、誰かが「盗用」することに対して異議申し立てを行う主体の位置が自明でない場合、その「権利」なるものを主張することには困難が伴う。
そこで私(たち)は、《My神楽》で歌われる歌詞に救いを求めることになる。
ここには清々しいほどの開き直りがある。
歌っている九州出身の彼女たち自身でさえ、その伝統の「始まり」は知らないと言う。にもかかわらず、「いつの間にか dance」してしまう。そのような、理性の限界を自然と越え出てしまうような力学が、文化や伝統には備わっている。実際、アルバム制作に関わっているASOBOiSMは横浜出身、PARKGOLFは北海道出身であり、九州へのゆかりは深いとはいえない(
ように見える)。
さらに原理的な話を持ち出して「文化」というものの形成過程を吟味してみれば、「純粋」な文化などは一つとしてないものにはすぐに辿り着く。あらゆる文化は、民衆的/大衆的、国民的/外国的、高尚/低俗、土着・伝統/外来、といった境界線が入り乱れる中で形成されるものにすぎない。そういう意味ではあらゆる人が文化の所有者になりうるし、反対にあらゆる人が文化を所有することなどできないとも言える。
なお上のような文化形成の複雑性は、前作『九祭』の《和・華・蘭》、そして今作『九伝』の第一曲目《トライじん》が、そのタイトルからして象徴していよう。
そしてまた、『九祭』以降のばってん少女隊が現代のヒップホップとコラボしていることもここにきて意味をもってくる。ラップ・ミュージックをはじめとするヒップホップ文化はニューヨークのアフリカ系アメリカ人たちの間で広まったというのが定説だが、いまや世界中に拡散し、それぞれの地域に根差したかたちでの新たなヒップホップ文化が現在進行形で生まれ続けている。今回のリード曲《My神楽》のタイトルで、本来的には地域で共有される文化であるはずの「神楽」という儀礼に、いやしくも「My」が付与されていることは、ばってん少女隊とヒップホップ文化(の「根なし草」性)との蜜月が、かなりの程度深まっていることを示唆していよう。
そのため「文化の盗用」を考えるのではなく、むしろ「文化の共有」があることによって拓かれうるこれからの世界の連帯にこそ、私としては期待したい。
これからのばってん少女隊はどこに行くのか――九州という「辺境」から、まだ見ぬ「辺境」(=周縁かつフロンティア)へ
以上のように「文化の盗用」の課題を(ひとまずは)乗り越えたところで、『九伝』をきっかけとして拓かれることとなる、これからのばってん少女隊の可能性に言及して終わりとしておきたい。
私としての希望を端的に言ってしまえば次のようになる。
「日本」的なるものを媒介とせずに、九州という「辺境」から、また新たな「辺境」を目指してほしい、と。
ここであえて「辺境」という、ともすればネガティブな意味に受け取られかねない言葉を使っているのにはもちろん理由がある。
ひとつには、「辺境」という言葉のもつ両犠牲を意識してである。
「辺境」には、一方では「はじっこ」転じて「遅れた」といったような、ネガティブな意味が付与されがちであるが、他方で「はじっこ」であることは、いまだ見ぬ未踏の地(フロンティア)がその先に拡がっていることを示唆している。ここで『九祭』に収録された《和・華・蘭》が想起されよう。九州とくに港町としての長崎は、あらゆる文化が混交する土地として発展してきた。これはつまり、長崎または九州という土地がひとつの「辺境」であり、東京のような「中心」ではなしえないことをなしうることのエネルギーがそこに秘められていることを示唆している。
(なおここで、同じ事務所に所属するグループいぎなり東北産との比較も可能となろう。いぎなり東北産の場合、東京・日本武道館でのライブコンサートを開催することが長らくの目標として掲げられ、また近年では積極的に関東圏でのイベントが開催されている。ここにはおそらく、明治時代以降「中央」である東京への人的・物的供給源としての役割が求められてきた東北という土地の地理的・歴史的特性を良くも悪くも受け継いでしまっていることがあろう。)
いまひとつには、「ばってん少女隊」というネーミング、そして近年多用されている神道的モチーフとの兼ね合いである。
神道的な世界観を含め前近代的な価値観では、人間世界と神的・霊的世界との間に立つことのできる存在がシャーマンとしての巫女、つまり「少女」であった。「少女」とは、一方では神的・霊的世界につながることのできる「力をもつ」者であり、他方では庇護されるべき「弱い」者でもあり、極めてマージナル(=周縁的)な存在であった。ここにもやはり、人間世界において「辺境」的な位置にいることの両義的な意味が関係している。そのため、現代的な巫女=少女を体現する存在であるばってん少女隊に対して、「辺境」という言葉を使うことの意味が認められよう。
以上二つの理由から「辺境」をばってん少女隊に対して使っているわけだが、ではそこからまだ見ぬ「辺境」に行くとはどういうことかが示されなければならないが、そこに至る道程はすでに示されているといってよい。
彼女らはすでに、フランス・パリでのJapan Expoや、インドネシア・ジャカルタでのJAPANA MATSURIというイベントに出場し、かなりのインパクトを収めている。
あえて文句をつけるとすれば、いちいち「日本Japan」を持ち出すことなく、彼女らの代表(ヒップホップ的にいえば、レペゼン)する「九州」が意識されれば申し分ない。また、パリやジャカルタといった都市を超えて、より「辺境」なところへのアクセスがなされれば嬉しい。そうすることで、九州という「辺境」から生まれた文化が、まだ見ぬ「辺境」に根付き、また新たな文化が形成されることが実現されるだろう。その先陣はすでに、世界に広まったヒップホップ文化によって切られている。
そうして私は結局、彼女らが力強く歌う次の歌詞に舞い戻ることとなる。
※できるだけ早く公開を目指したため、推敲が十分でない部分が多々あります。公開後適宜加筆・修正を行うかもしれません。
※本記事において、書籍とCDのタイトルは二重カギカッコ("『 』")で、強調と引用は一重カギカッコ("「 」")で、曲名・作品名は二重山カッコ("《 》")、引用中の注釈は甲カッコ(" 〔 〕")で記載しています。