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(映画レビュー)森達也監督『福田村事件』

関東大震災後の朝鮮人虐殺と同時に起きていた、被差別部落の人びとへの虐殺事件という実話を基にしたストーリー。
 
実話が基になっているとは言いつつも、朝鮮人へのヘイトと被差別部落へのヘイトという、根を同じにしながらちがう軸で展開されていたものが民衆暴力として絡み合っていくさまの見せ方が見事。同時代的な話題として、大正デモクラシー、大正自由教育、プロレタリア演劇、社会主義運動なども当然出てくる。
被差別民への虐殺行為という意味での「事件」が起こるのは劇中後半部のため、衝撃的な「事件」が序盤から展開されることを望んでいた期待は裏切られた感がある。もっと言えば、関東大震災が起こった9月1日から9月6日までの5日間が、冗長と言いたくなるほど丁寧に描かれる。芝居がかったセリフ回しや説明口調なども気にならないではない。
しかし最終的には、それまでに描かれたものが物語として不可欠だったことに気づかされる。被差別民の生活、農村部の生活、朝鮮人の生活、震災直後の東京周辺の状態、等までもを含めて「福田村事件」と言うことができるかのようだ。
 
どうしても印象に残るのは、生き残った少年が「(殺された)9人にも名前があったんです」と、殺された仲間たちの名前を一人ひとり呼んでいくシーン。思えばそれまでに彼らの名前が呼ばれることはほとんどなかった(あったとしても騒々しいシーンのためほとんど聞き取れない)。
少年によって呼ばれる名前から、彼ら一人ひとりの命に思いを馳せないではいられない。カタストロフィやジェノサイドによって「無数」または「多数」としてカウントされ歴史の隅に埋もれてしまう者たちの魂への配慮としての、映像的手法として見ることができる(これは以前の記事に書いた『ベルシャン・レッスン』にも見られたもの)。
 
気になったところがあるとすれば、外見的な「美/醜」と内面的なそれとが、ありがちな仕方で結び付けられているように見える点。「悪者」的なキャラクター(たとえば水道橋博士演じる在郷軍人会会長や、虐殺シーンで「先陣」を切ってしまう女性)にはいわばパッとしない顔立ちをしていたり「ブサイク」的なメイクを施したりしている役者が当てられ、差別に立ち向かうようなキャラクター(永山瑛太演じる被差別民の「親方」が特に顕著)には「美形」の役者が使われている。
こういう、外見的な特性で人の内面をも評価しようとする「骨相学」的な考え方こそが差別を生んできたのではないか。こういう思考を触発するためにあえてそうした、という筋もなくはないが。

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