この世界で空しくなるのは必然か?
よく生きることと、うまく生きることの距離が離れていけば、人は必然にそのどちらかを選ぶことを迫られる。
良い生き方を選択すれば、流れへと逆らう生き方をすることになる。流れに逆らうその生き方は、苦しい生き方そのもので、苦しみの多い生とは、後悔の多い生でもある。その生を選択した人は道の先々で思うだろう。もうちょっとうまく生きれば楽に生きられたのにと。
もう一方、うまく生きたほうを選択してそれを成功させたとしても、私は成功したが、本当に私はこの生き方でよかったのかと、自分の空虚さをふとした瞬間になぞることになる。結局のところ、私は空っぽで、何もないと。たくさんの物質で満たされたはずの人生で、幸せの模範解答とされたはずの人生で。この人はわかっているのである。成功できるほど賢い人はわかってしまうのである。道徳や倫理のない生は空しいと。
絶対的な立場も、意味も、あらゆるものが相対化された世界では、人は自分に向きあわざるを得なくなる。そうして何かを見つけても、やっぱりそれも相対化の力の中に投げ込まれて、いつしか空虚さを感じてしまう。
人生とは、絶対的なものなど何もない中で、果敢に決断することである。
だがそれでも、絶対的な何かを探してしまうのが人生である。
よく生きることでも、うまく生きることでもない、第三の道を時折妄想するが、どうも今の私には見つけらそうにない。
蒙昧な決断主義に支配された方向性だと批判されても、それ以外の道はこの時代には通用しない。
この国は自由主義ではなく、新自由主義に舵を切ったのである。
巨大な力を持つ政権の、国家の選択したこれからどう進むかという力に、個人の力が上回ることはまずない。
場面の中でどう生きるかという枠の中に押し込められる。
場面の外などないのである。
生まれ落ちたその瞬間から、そのルールの中で戦っていくことになる。
巨大な波の前では、それに逆らって生き残ることはできない。
その波にいかに乗って遠くへ行けるか。
どこへ行くのかと誰かにきいても、誰も、何も答えられない。
そんな中で、私たちは生き続ける。
そんな生は苦しい。
生の本質を理解した気がする。
生は苦しい。
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