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インターネットで流行っている言葉たちに対する感慨 価値観を押し付けるな 他責思考

マジックワード的と言ったら伝わるだろうか、とりあえずこれをいったら相手のすべてを表現できてると思って使っているようなそんな感じがする。レッテル張りの側面の強い言葉である。つまりは政治的な言葉だ。たいていこの二つが使われている瞬間というのは、自分と相手が敵対的な関係にある時である。そういう場面では自分がすぐれていて、相手が劣っていると第三者にアピールするといった形になりがちである。その際に真っ先にこの二つのワードが動員されている印象がある。だからだろうか、自分はこの二つのキラーワードに対してあまり良い印象を持っていない。流行の言葉をむやみやたらと追いかけるのではなくて、もっと他の枠組みでとらえることが妥当なんじゃないかと思う。大体人間ってひとりひとり、接近すればするほど違う生き物だし。他責思考とか言ってる側はきっと必殺技を打っているような気持ちよさがあるのだろうが、これがいつでもどこでも通用するような、一般化された最強の概念には思えない。なんでもかんでも他責思考、他責思考言ってる人は馬鹿に見える。

価値観を押し付けないのが、よい人間とされることに対しての違和感

価値観を押し付けないでよ!インターネットでよく目にする文章だ。これを目にするとたいていなんだか変な気持ちになる。すっと体になじむ共感と、肌にまとわりつく湿気に似た気持ちの悪さ。何が自分の中で起きるこの反応を呼び起こすのか、ちょっと考えてみよう。
価値観を押し付けないでよと主張する側の、その平穏に保たれた内面世界を侵略しないでといった欲望が透けるのが嫌なのだろうか?
価値観を押し付けないでを押し付けておきながら、自分の潔癖さと偏屈さを俯瞰せず、やたら自信満々なとこが鼻につくのだろうか?

他人がわからない 

わからないことが多い人生だった。今もわからないことがたくさんある。このわからないことというのは、理解できないことではない。大概の話は、当人の内在的な論理、つまりはその人の中でどういったように論理的に動いているかは大体つかむことができる。その人が饒舌であれば饒舌であるほどよくわかる。話していることの論理をそのまま追っていけばいいのだから楽である。私が言いたいのは、それを自分のものとして引き受けることができないといったことである。言い換えれば、受け取った論理を実感として受け取ることができないということである。他者を知識としてでしかこの身にすることができないということである。なんでこんなことを思うのかというと、話を聞く限りどうやら周りの人間は、受け取った論理を認知的に共感してなおかつ、実感しているように思えるからである。明らかに他者から投げかけられた物語を受け取って、その他者と同じ痛みを感じて、怒ったり、悲しんだりしているのである。他者の痛みを他者の痛みとしてそのまま処理するわけではなく、内面化して、実感して、心がそのままつながったように、その他者と同じように感じて振る舞えるのである。他人が他人ではないのである。これがわからない。

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