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消耗しなくても、社会を良くできる循環を

社会を良くするためには、多少の無茶は必要だ
ということを少し前まで思っていたし、今もやっぱりそうなのかなあと思うこともある。

ただ、そういう志を持っている人に限って、とっても不器用でバランスが取れない人が多いなあと、私の周りを見ていると思う。(何人も顔が浮かぶ、不器用だけど熱い情熱を持った大好きな友人たち。)

社会を変えるのには確かにパワーが必要だけど、1人の人間の人生を結構めちゃくちゃにしてまで変えなきゃいけない社会って、どんな社会なんだろうか、とまで思ってしまう。

…とかいいつつ、やっぱり志のために働くのは楽しいしかっこいい。
要はバランスを保つためには何ができるんだろうか?と言うことを書きたい。とっても理想論だけど、いま私が考えている作りたい世界を書いてみる。

ぜひ、共感する部分とか、いや私はこれはこうだと思う、とかいろんな意見をいただけると嬉しいな。
※今回のnoteは特にソーシャルセクターを意識したものになっていますが、どんな組織にも通じる話だと思って書いています。




私が体を壊すわけないじゃんって思ってた

私個人の話でいうとこんな感じ。

・2022年10月から体調が少しずつ悪くなっていく
・2023年1月にMaxで体調悪くなる→残業0にしてもらう。3月末から休職
・2023年3月に所属の会社が村から撤退、5月に私も村の仕事を完全にやめる。

ここから、私個人の体調の話を詳しく書くのは話がずれそうなので、友だちのともちゃんのnoteを貼ります。少しでも最近調子悪いかも、と思う人はぜひ見てみて。

改めて今読んでみると、共感できるところが多くてびっくり。そして、体調を崩し始めた1月よりも、今の方がすごく共感できる。当時の私は正常な判断ができてなかったなあ〜と実感する。

当時の私は「体調は誰でも壊すことはある」ということは聞いてたけど、自分だけはなんだか例外なような気がしてた。

だって、めっちゃインターンたくさんしてきて「やっぱジェイミーってすごいね」ってたくさん言ってもらえてきたし、新卒で入った会社でもありがたいことにお褒めの言葉をたくさんいただいたし。

それなりにタフな自信はあった。でも、やっぱり限界はあった。

こういう病気は明らかに「脳の病気」であり、気持ちの問題とかではない。もちろん人によってなりやすさとかはあるかもしれないけど、誰でもなりうる。風邪の引きやすさとか、胃もたれのなりやすさとかに違いがあるのと同じ。

例えば腕を金属で何回も殴られたら、どんな人でも絶対骨折することはイメージできると思う。それが、20回叩かれて骨折する人と200回で骨折する人で違いはあるけど、折れるものは折れる。心(=脳)も同じ。

そして、一度折れてしまったものはなかなか治りにくい。現に私も睡眠障害(過眠)がわりとずっと続いてる。このnoteもちょっとずつ書いてるけど、PCに向かうのがしんどくて横になってスマホで書いたところもある。

コテンラジオの「メンタルケア、どうしてる?」回も非常にわかりやすいので聞いて欲しい。私たちが普通フィジカルの体に対してやらないようなことを、メンタルには平気でやっちゃうよね、というのはとても頷ける。


社員をこういう疾患にしてしまった組織は「会社がこういうフェーズだからしょうがないよね」ではなく、もっとコトを重くみてこれ以上そういう人が出ないように、早急に仕組みづくりをして欲しいと切に願う。

(きっとそれが難しいんだよね…とも思う。今まで見てきたリーダーの人たちはみんなカッコいいビジョンを持っていて、本当に尊敬できる人ばかりだった。別に「この人の体調を悪くしてやろう」と思って組織を運営している人は一人もいないと思う。ただ、バランスの取り方がなかなか難しいだけ。だからこそ、仕組みづくりを一緒にしていけたらいいなと思ってる。)

その個人は、たまたまタイミングがあってその会社に所属しているだけで、会社が使い捨てのコマのように使っていいわけじゃないのだから。

超余談だけど、保険に入るとき、精神病も寛解後5年間は「精神病でした〜」っていうのを言わないと告知義務違反になるとのこと。当たり前っちゃ当たり前なんだけど「私ってちゃんと病気なんだなあ…」としみじみと思いました。


体調を崩すのは、会社にとっても遠回りじゃない?

上に書いた通り、自分が体調を崩して「体調崩すのってめっちゃ遠回りだな〜」と改めて感じた。

一方で、遠回りなのって個人だけじゃなくて、その会社/団体もだよね?と思う。
結構な時間とお金をかけて採用をした人間が辞めてしまうのはもちろん、離職率が高いという情報は会社のイメージにとっても言わずもがな悪影響だし。

もちろん、ここぞ!というときに踏ん張って頑張ることはお仕事においては重要だし、そういう踏ん張りが大きな価値を生み出すことはわかっている。
でもそれが常態化するのは良くないよね、サステナブルじゃないよね、っていうのを改めて強く言いたい。

そもそも、ほとんどの会社/団体は「社会を良くするため」に存在するはず。社会課題解決を掲げているソーシャルセクターならなおさらその色は強い。
社会を良くするという目的のために、その「社会」を構成する個人個人をウェルビーイングでない状態にしてしまうのは、とても大きな矛盾ではないだろうか。

どんな尊いビジョンを掲げていても、それがその会社/団体に関わる個人のウェルビーイングを損なう理由にはならない、と私は思う。

社会変革の分野では長い間、チェンジメーカーたちのウェルビーイング[身体的・精神的・社会的に満たされた良好な状態にあること]は、ほとんどタブー視されて十分に検討されてこなかった。その一因は自己犠牲や殉教精神を特徴とするカルチャーにある。人の命を直接助ける活動であれ、気候変動対策を求めるアドボカシー活動であれ、社会を変えるために働く人々には、自分よりも他者を優先することへの潜在的な期待がある。

「わたし」を犠牲にせず社会を変えよう『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 01 ソーシャルイノベーションの始め方

(これはソーシャルセクターに限った話ではないけど)元来、自己実現の方法の一つである仕事は、ウェルビーイングの一要素になるはず。最初にも書いたけど、そのバランスがうまく取れてない組織/人があまりにも多すぎるのが問題ではないだろうか。

▶︎働く人が消耗していく
▶︎ソーシャルセクターから人が離れていく/関わりたいと思っている層も関わってくれない
▶︎課題も早く解決できない

こういう悪循環じゃなくて

▶︎働く人がウェルビーイングを保っている
▶︎ソーシャルセクターに長く人が残ってくれる/関わりたいと思っている層がよりソーシャルセクターに関わってくれる
▶︎より早く課題が解決されるようになる
▶︎より多くの人々がウェルビーイングな社会

こんな循環を作れたらいいな、とだいぶ元気になってきてから、3ヶ月くらい考えていた。



どうやら、消耗しない組織のほうが社会を良くできるらしい。

そんなことをもやもや考えていた時に、ある一つの記事に出会った。
それが、夫がたまたま買ってきてくれた、こちらの本。

この本の「「わたし」を犠牲にせず社会を変えよう」という記事がめちゃくちゃブッ刺さった。

この記事で書かれている調査は、ソーシャルセクターに関わる人々の内面をウェルビーイングが、最終的に社会の変化にどう関わるのかについて調べるものである。

…私たちはこの問題をグローバルに調べ始め、チェンジメーカー一人ひとりの内面のウェルビーイングをどうサポートしていくかを模索しながら、内面のウェルビーイングと社会の変化がどう関わるかについて調査した。…

「わたし」を犠牲にせず社会を変えよう『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 01 ソーシャルイノベーションの始め方』

…この調査から私たちが学んだのは、回答者の多くが仕事から距離をとりづらいと感じているということだ。それは仕事との一体感を強く感じているからでもあるし、いまだにこのセクターでは過労が勲章だという考え方があると感じているからでもある。もうひとつ明らかになったのは、カルチャーが内面のウェルビーイングをサポートするものになるか軽視するものになるかには、組織やセクターがかなり重要な役割を果たしているということだ。…

「わたし」を犠牲にせず社会を変えよう『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 01 ソーシャルイノベーションの始め方』太文字はジェイミー。

…そして、私たちが見出した結論はエキサイティングなものだ。内面のウェルビーイングは、現在進行形のプロセスであり、複雑でつねに進化するものであることには留意すべきだが、今回の調査から明らかになったのは、個人が自分のウェルビーイング向上に意識をシフトさせると、組織全体のウェルビーイングにも活動への関わり方にもプラスの影響を与えるということだ。さらに、社会レベルのシフトも観察され始めている。つまり、チェンジメーカーの内面のウェルビーイングと社会変化の起こり方の間には明らかな関連性があることがわかってきたのだ。

「わたし」を犠牲にせず社会を変えよう『スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版 01 ソーシャルイノベーションの始め方』太文字はジェイミー。

驚くべきことに(一方で、そりゃそうだよねと思うことには)個人のウェルビーイングの高まりは、個別のレベルだけでなく、組織をより強いチームにしたり(同僚や仲間に対する関わり方の変化、他者へのエンパワメントが高まるなど)、セクターレベルでのコラボレーションの高まりにまでつながったという。(詳しい内容はリンク先の記事を見てほしい。)

最終的には社会レベルの成果にまでつながるのでは、というのがこの記事で述べられている。

(日本国内で全く同じことが言えるかは疑問が残るが)個人を消耗させるよりも、個人のウェルビーイングを高めていけた方が最終的に社会を良くできるスピードは早くなる、ということが言えるのではないだろうか。


「消耗しなくても、社会を良くできる循環」を私はどうつくる?


ここまでつらつら書いてきたけど、じゃあ実際にどうしたら「消耗しなくても、社会を良くできる循環」なんて作れるのさ?とみなさん思うと思う。

まず私個人ができるかなあ、と思っていることは(先ほど挙げている記事にも方法として言及されている)インナーケアとしてのコーチングかなと思っている。

こちらのnoteも良いものが書けたのでぜひみてみてね

私がコーチングを学び始めてそこまで時間は経っていないが、コーチングの考え方・コーチとしてのあり方に「自分が自分らしくいられる」ためのヒントがあるように思うし、自分自身も「自分の足で立って生きている」感覚が強くなったように思う。

対個人レベルではこういうことができると今は思っているのだが、じゃあ対組織では何ができるか?と思ったときに実は何もイメージがついてない。(ので、ぜひアイデアを教えてほしいです。)


てか、頑張っている組織に急に赤の他人がきて「ウェルビーイングが大事ですよ!」となんて言われても、「今はそれどころじゃないんだ!何もわかってないのに口出さないで!」って気持ちになるんじゃないかな、とすら思ってしまう。(私はそうだった。ソーシャルセクターは基本的にお金も時間も限られていることが多い。その中で社会を良くしようとめちゃくちゃ頑張っている人たちがたくさんいる。)

うーんどうしようねえ…という感じで色んな人に情報を聞いてみようと思います。



終わりに:やっぱり「消耗しなくても、社会を良くできる循環」は作れると思う


そんな感じで、今回は結構大きなビジョンを、側から見れば「ただの理想論じゃん」って思われるような感じで書いてきた。

でも、なんか直感的なもので申し訳ないのだけれども「消耗しなくても、社会を良くできる循環」は作れるような気がする。

そもそも、このnoteを書いた理由としては、今までソーシャルセクターで共に活動してきた(卒業した人も含む)同士たちが
最近、相次いで精神的な病気になってる/なってた、を見聞きしたからだ。(そしてタイムリーに私も同じ状況になってしまったからだ。)

ソーシャルセクターで活動しているみんなは、(もしかすると一緒にいる時も何かを抱えていたかもしれないけれど)自分や組織のビジョンに真っ直ぐで、キラキラしてて、一緒に活動していて本当に楽しかった。あの時間は私にとって「とてもウェルビーイングな時間」だった。

ただ、やっぱり何事もバランスが重要で、度が過ぎてしまうと消耗してしまう。(思いっきり偏見が入っているが)ソーシャルセクターに集まっている人なんて真面目で愚直で、不器用な人が多いから、余計に消耗しちゃうんじゃないかなと思う。(もちろん、セクター問わず言える話とは思う。)


「ワークライフバランス」と聞いた時に私が思い浮かぶのはてんびんのようなイメージだけれども、ウェルビーイングと仕事の話をするときに私が思い浮かべるのはバランスボールのイメージだ。

仕事でもプライベートでも関係なく、調子がいい時はぽよぽよと飛び跳ねることができる。ただ、何かのバランスが崩れると転んでしまう。楽しいボール(例えば夢中になれるプロジェクト)も、何回も強い力で上で跳ねてしまうとボールが割れてしまうかもしれないし、自分が転けてしまうかもしれない。逆に、ボールに乗っているだけだったり、ボールの空気が少な過ぎても、楽しく遊ぶことはできない。

バランスボールで跳ねるときには「ちょうどいい」が大事なように、ウェルビーイングにおいても「ちょうどいい」が大事なのではないかと考えている。

ぜひ、このnoteを読んでいるそこのあなたは、自分のウェルビーイング/ちょうどいい、を他人事と思わずに近しい同僚や友人と(時には勇気を持って)話してみてほしい。

そして、私自身は上記に書いたことをこれから実行に移していけたらと思っている。直接やSNSで間接的につながっている人は、ぜひとも一緒に考えられたら嬉しい。

私の大好きな友人たちが、少しでも自分らしく輝ける、そして同時に社会が良くなっていくような、そんな循環を少しづつ作れたらと思っている。

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