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砂漠の僕ら

大人目線

大人

きいと書いて大人

大きいの反対は小さい

だから、大人の反対は小人
とはならない。

子供

を合わせて子供

子に「ども」を付けてしまうなんて
この言葉を作った大人は
なんて上から目線な人間なんだろう

子どもの飲み物の意

子どもの飲み物で乾杯♪
さぁ~みんな〜で乾杯♪

でお馴染みの飲み物。

そのヴィジュアルと口当たりは間違いなく
ビールに似せて作られている。
そして、これが入ったコップを手に持ち、
大人たちのビールグラスに乾杯をする。

ビールという存在がいかに大人の象徴であるかを
この飲み物が強く表している。

同時に「子どもの飲み物」を飲むことは、
まだ大人ではないという意味を作ることになる。
(子どもたちは、そんなことを一切考えていない
 だろうが。)

では、今日
大人の飲み物を飲める僕らは
子どもではない、大人と言えるのだろうか。

平成億万長者

子どもの頃の僕らは平成にいた。
平成に生まれ、平成を過ごした。

だが、そこに漂っていた価値観
昭和のものだったのかもしれない。

いい大学に入って
いい会社に就職して、結婚して
全国転勤だったとしても
 文句を言わず、家族のために働く。

高級車や大きい家、億万長者、社長など
資本主義の権化みたいなワードでできた言葉で
なんとなく「将来の夢」を描いていた気がする。

あの当時に
少ない年収でもいい。
 ゆっくり好きなことをして生きていきたい」

なんて言ってる友達は周りにいなかった。

漫画家やケーキ屋さん
ペットショップの店長を夢に描いていたあの子も
になって稼ぎたい」だった。

蜃気楼

平成を越えて令和になった。
新しい価値観はどんどんと現れてくる。

その度に感じるのは「あの頃の大人」の消失だ。

僕たちが日々ゆっくりと植え付けられてきた大人像
僕たちがそこに到着した瞬間にふっと消えた
蜃気楼のように。

おかげで一生、大人というのが分かりそうにない。
本当に成人式があってよかった。

形だけでも大人にしてくれた。

儀式の救い

科学的」というのは信頼感のある言葉だ。
賢人たちの知識と信用に値するデータを下に語られ
目の前の相手を頷かせることができるかもしれない。

反対に「非科学的」と聞くと
怪しい水や高額な壺の効果を
謳い文句にする商売が浮かんだりする。

だが、人類史の観点から考えると人間は
とても非科学的な営みが好きらしい。

(先日、僕が読んだ「文化人類学の思考法」で
 呪術と科学について書かれていたことをベースに)

呪術というのは広く言えば、
儀式儀礼思い込みであったりもする。

例えば、思春期を迎えた少女が自分の下着を
洗濯機で父親のものと一緒に洗われたら。

お父さんのと一緒に洗濯しないで!

となるだろう。

ここで彼女に

洗濯機による洗浄において汚れが
 伝搬することを示す科学的根拠はありません

と口説いても多分余計に怒るだけだ。

これは家族というミクロな社会で父と娘の間に緊張感を生み出して、より距離のとれた関係を保とうとする機能がある。らしい。

もう1つは、てるてる坊主を作ることだ。

てるてる坊主を作る時に
明日は確実に晴れる
からと吊るす人はいないだろう。

あれは「てるてる坊主=快晴
という因果関係を演じることで翌日のイベントが
てるてる坊主を作る程待ち望んだイベント
という意味ができるからだ。

僕たちは意外と非科学的なことで
自分を保ったり鼓舞したりしているようだ。

つまり、

子どもの飲み物にはある意味で
大人と子どもの境界線を想像させ、
 より明確にさせる
」機能。
成人式には
科学的に、身体的に大人に成るではなく、
心理的に大人に成る」ことを形として行い。
当事者の社会的立場も作り出す機能

がそれぞれ存在するのではないだろうか。

大人に成るために歩き続けてきた砂漠
その先に見えていた、遠くのオアシス
それを見失っている今少しでも救われるには
大人に形だけでも成れていると思い込むしかない。

結局のところ

大人のふりが上手い人が、大人なのかもしれない。

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