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あめ三つの幸せ

幸福論

幸せな瞬間は人それぞれだ。
何をどう定義しようが
僕ら、あなたの自由なのだから。

独りの男が夜に光るファーストフード店で静かにハンバーガーを頬張っていようと彼自身には
一人の自分」としか思っていないのかもしれない。

幸福とは何か?

よく幸福論において物質的な幸福を頭ごなしに
否定するひとがいる。
僕はその気持ちが少し分かる。

産業革命、科学の進歩、環境破壊
戦争、経済、高度経済成長期、大量消費社会
僕たちミレ二アル世代が生まれる前の物語。
それは栄光か退廃か。

だが、どう突き詰めても幸福を作り出すもの自体は、自分の外側にあるものではないのか?

美味しいものを食べて幸せなこと。
何かを買って幸せなこと。
誰かと一緒にいて幸せなこと。

やはり、僕たち人間は自分の輪郭より外にあるものから幸福を作り出しているようにしか思えない。

過去の思い出や未来の希望を想像して
君の脳内にエンドルフィンが駆け巡ったとしても
全ては見てきた、聞いてきた、外のことから始まっている。

幸福が物質か非物質かどうかを議論すべきでない。

僕たちの認知する幸福と呼ぶものは
全て僕たちの外側からやってくる。
なぜならそれを感じる自分が内側に存在するから。

持論

では人間にとっての幸福とは?
となった時の一つの答えは
「幸福とは何か?」自体を問わないこと
ではないだろうか。

幸福が自分と認識する以外のものから発生すること
自体は揺るがない。
そして何を幸福とするかを決めるのも各々であり、
それを他人に押し付けない。さらに他人と比べない。

幸福とは何か?」ではない。
僕が、あなたが 何を幸福とするか?」だと。

だが、気を付けねばならない
あなたが信じるその幸福の一つも、誰かが何世紀も
前に作りだした虚構なのかもしれない。

これは決して、目の前のあなたの幸福を否定しているわけではない。

フィクション史

僕たち人類がここまで生き残り、
コンクリートジャングルの中で二足歩行をして
デジタルに肩まで浸かって過ごせるようになったのは「神話を信じる力」があったからだと思う。

アフリカで生まれ世界中に大移動を繰り返した僕らの祖先は「フィクションを想像し、他人に広める」ことをした。

神話宗教伝説概念言葉音楽スポーツテレビ教育

この瞬間も全てが僕らにとって
認識できるノンフィクションであり、
僕らがそう定義付けたフィクションだ。

道端に咲く花、森の木々、深海の魚たちにとって、
それらの何一つ必要でない。
彼らはすべての営みに理由を求めようとはしない。

そう。
幸福さえも作られた概念のひとつなのだ。
だが、何も問題はない。
何を幸福とするのかも自由だ。
ただ、それを「なぜ幸福だと思うのか
を分かるようにしておいた方がいい。
虚構であることにさえ気づけないように
虚構はできている。

小小話

子どもの頃に幸せだったことは
意外と小さなことだったりする。
そして、それが小さなことである程、
印象深かったりもする。

四角いあめが二個連なって、それぞれ色が違う。
あのあめを三つ同時に口へと放り込む。
全部で6個。
とんでもなく幸せな気分になる。

親戚からもらった高級なチョコレートを食べる時よりも何倍も幸福感を感じられた。

あの感覚を忘れないように生きたい。

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