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『モルグ街の殺人』の現代的価値

 ミステリは現代日本の商業小説界の中心に君臨している。
 小説に限った話ではない。テレビドラマ、映画、漫画、アニメ……さまざまな文化領域でミステリの技法は利用され続けている。
 推理小説は知的遊戯であると同時に「読者の知性を育む」という使命を持っている。この「読者を育む」という啓蒙意識において、推理小説はゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』のような教養小説(ビルドゥングスロマーン)に類似している。(推理小説が読者の知性を育もうとするのに対し教養小説は読者の徳性を育もうとする、という点で両者は大きく異なっているが……)
 さて、推理小説は本当に読者の知性を育んでいるのだろうか。
 批評家・花田清輝(1909-1974)は「探偵小説論」という文章の中でミステリを批判している。

探偵小説の卑俗さは、殺人という野蛮な行為を主題とし戦慄や不安を盛りあげてゆく点にあるのではなく、逆にそういうものから逃避し、切子硝子のように透明な、論理によってきりきざまれた装飾的な世界を、次々に展開してゆく点にある。(中略)かれらは、もともと論理的に割りきれるものを、せいぜい手際よく割りきってみせるにすぎないのだ(中略)もしもかかる作品を読んで、今日のインテリゲンチャが論理的興奮を感ずるとするならば、それはおそるべきかれらのナルシズムによるのであろう。

一分の隙もない酷評だ。しかし一方で花田はミステリの祖、エドガー・アラン・ポーのことを非常に高く評価している。

かれの探偵小説はリアレスチックであった。現実の非合理性を、かれは身をもって知っていた。そこでかれは、ますます合理的であろうとした。論理にたいする執着と、論理にたいする不信とは、ほとんどかれにあっては同一の状態を意味した。かれの論理は、明瞭に、今日の探偵小説の論理から区別されなければならない。

このように、ポーの探偵小説と現代の探偵小説は全く異なる、と花田は主張している。それではいかなる意味において、ポーの論理は「今日の探偵小説の論理から区別されなければならない」のだろうか。
 この問題を解くためには、「そもそもミステリにとって探偵とは何なのか」という問題について考える必要がある。
 僕は探偵のことを「合理的な物語を提示する主体」だと捉えている。不可解な事件を矛盾なき合理的なモデル=物語によって説明する、それこそが探偵にとっての第一の課題だ。
 探偵を「合理的な物語を提示する主体」として捉えると、ミステリには3つの類型が存在することが分かる。
A.物語の不在に対して探偵が合理的な物語を提示する場合
B.非合理的な物語に対して探偵が合理的な物語を提示する場合
C.合理的な物語に対して探偵がより合理的な物語を提示する場合

 Bの代表例はいわゆる「見立て殺人」である。マザーグースの歌詞や古くからの伝承に沿った形で殺人が起こり、探偵以外の登場人物は「何者かの呪いではないか」などといった迷信に囚われて不安を抱く。そこに探偵が合理的な物語を提示し、真犯人が何者なのか、なぜ犯人は事件を歌詞や伝承に見立てたのか、などの謎に対して明快な説明を与える。アガサ・クリスティや横溝正史の作品によく見られる類型だ。
 Cはいわゆる本格派ミステリの王道である。真犯人が別の人物に負わせた嫌疑を、探偵がより合理的な推理で晴らす。エラリー・クイーンの作品にはこのようなものが多い。
 BもCも、既にあるモデル(物語)に対して探偵が別のモデル(物語)を提示する、という構造を取っている。そして、既にある物語とは多くの場合犯人によって提示されている。なおかつ犯人は(自らが犯人であるがゆえに)事件の真相を把握している。よってBやCのようなミステリは、
①犯人による物語P(事件)の実行
②犯人による物語Qの提示
③探偵による物語Qの否定
④探偵による物語P(真相)の解明

という4つの段階を踏んで進行する。
 さて、ポーの『モルグ街の殺人』はこのような段階を踏んでいない。この作品は3類型のうちのA、「物語の不在に対して探偵が合理的な物語を提示する場合」に属しているのだ。
 あえて結末は伏せるが、『モルグ街の殺人』に「明確な計画性を持った犯人」は存在しない。偽装工作も行われていない。そこにはただ、何の意味付けもなされていない二つの死体があるだけなのだ。
 「無意味な死体」は「呪いによって殺された死体」よりも恐ろしい。そこにはいかなる因果も法則もなく、ただ物質的な不気味さだけが横たわっている。そしてその不気味さはデュパンが事件を解決したあとにまで持続する。ポーはここで論理の外側、物自体の不可解を描いたのだ。『モルグ街の殺人』の現代的価値はここにある。
 当代の多くの推理小説はマルクスが言うところの「倒立した論理」に依拠している。彼らは非合理的な物質世界へ向かうことを避け、あらかじめ解のある問題だけを解いているのだ。花田の「もともと論理的に割りきれるものを、せいぜい手際よく割りきってみせるにすぎない」という言葉はまさにこれを表している。推理小説的な論理はどこまでも「世界を解釈する」ものでしかなく、「世界を変革する」ものにはなり得ないのだ。
 冒頭、僕は「読者を育む」という意識における教養小説と推理小説の類似を指摘した。教養小説は18世紀に独語圏で誕生し、19世紀に発展し、20世紀に衰退した。推理小説は19世紀に英語圏で誕生し、20世紀に発展した。21世紀の人間は果たして推理小説を欲しているのだろうか。この特殊なジャンルはかつての教養小説のように、古典としての権威だけを残して消え去ってしまうのではないだろうか。僕は心配している。
 笠井潔(1948-)は推理小説家でありながら評論家としても活動している。彼は第一次大戦後の戦間期にミステリというジャンルが流行したことについて、「大戦によって生じた大量死という現実を認識ししつつ、なおも『個性』という虚構を認め続けようという心理」が影響していると分析している。
 推理小説の登場人物はみなパズルの項として単純化されている。内面の葛藤や細やかな心理が描写されることはない(20世紀的)。しかし被害者の死体には犯人の意図と探偵の解釈によって二重の意味が与えられる(19世紀的)。死者にのみ個性が認められているのだ。
 推理小説は近代と超近代の合いの子である。そしてこの不徹底性は、推理小説が英語圏の文学だったことに由来している。英語圏の兵士も第一次大戦には参加したが、イギリスやアメリカが直接の戦場となることは無かった。一方フランス人やドイツ人は大量死の現実を英語圏の人間以上に間近で捉えていた。よって彼らは戦間期にダダイズムやシュルレアリスムのような超近代的芸術へと向かったのだ。
 21世紀は今、第一次大戦のような生々しい「現実」へ向かっていこうとしている。その中を生きる我々には「世界を変革する論理」が必要だ。そのような論理を広めるために、文学者は何をすべきなのか。
 推理小説は未だにその娯楽性を失っていない。推理小説の論理に代わる新たな論理を広めるためには、推理小説の内部から推理小説を否定する「ミステリ・ダダ」や「ミステリ・シュルレアリスム」のような作品が必要となるだろう。そのような作品が生まれた時、改めて推理小説は「読者の知性を育む」という当初の啓蒙性を取り戻すだろう。


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