哲学メモ3 恩寵としての実存
※本稿は、私が以前書いた『マハーヤーナ・ボリシェビキ』という記事の内容から敷衍されたものである。しかし本稿を読むために『マハーヤーナ・ボリシェビキ』を知る必要は無い。
あらゆる厭世主義は良くも悪くも「常識」である。
ここにおいて「常識」という言葉は「自らの人生に自らを超える目的を見出さない者の認識」のことを指す。
「神は死んだ」という認識が蔓延する現代において、「自らの人生に自らを超える目的を見出す」という行為は通常「実存」と呼ばれる。
よって、実存を持たない者は絶対に厭世主義を克服できない。
実存の根拠を当人の自由意志に帰すことは出来ない。なぜなら、実存とは自由意志の別名だからである。無から有が生まれないように、実存=自由意志の無い人間が主体的に実存=自由意志を手に入れることは出来ない。
実存の根拠は当人の内部には無い。よってそれは当人の外部に求められなくてはならない。実存は当人の外部から到来するのである。
あらゆる因果の法則は「常識」、すなわち「自らの人生に自らを超える目的を見出さない者の認識」の側に属している。因果の法則は常識と経験に基づいている。それゆえ因果の法則は論理的な必然ではない。
よって実存の到来は「常識」にとって「偶然」でしかない。この「偶然」は「奇跡」とも、また「恩寵」とも言い換えられる。
上記の主張は次のようにも表現できるだろう。すなわち、「実存は自然の法則に反している。よってそれは奇跡であり恩寵である」と。
たとえそれが社会的な法に触れる行為だったとしても、それが当人を実存させるのであればそれは恩寵の顕れである。
ニーチェの哲学はニーチェ的な人間にしか受け入れられない。ショーペンハウアーの哲学は万人に受け入れられる。
実存を持つ人間には、「ニーチェ的に生きながらも自らの根がショーペンハウアー的な厭世主義にあることを忘れない」という態度が求められる。
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