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「じゃがいも」のお寺話47 平安仏教(最澄)

最澄
766年(767年?):誕生

788年:今の比叡山の根本中堂の場所に一乗止観院を創建した。

797年:内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)
に任命される。天皇に使える10人の僧侶が内供奉十禅師。天皇の安泰祈りや看病などを業務とする。

802年:南都六宗の中での論争に対して新しい秩序作りのために唐の天台山へ僧侶を2名派遣する指示を天皇が出し、一旦は別の僧侶の派遣が決まったが、天皇が最澄に行くように命じた。

804年:7月6日九州から出航し唐へ向かう。9月1日唐に到着し体調の回復を待って9月15日に天台山へ向けて移動。9月26日目的地付近に到着した。10月7日に天台山に登った。

805年:唐で戒を授かり、多くの経典を手にして5月18日に日本に向かい出航した。6月5日には対馬に到着し京都に向かう。

806年:天台法華宗(天台宗)が新しい宗派として正式に認められる。
南都六宗に対して新しい宗派を起こし新しい仏教界の秩序を作りたい朝廷の意向があり、朝廷の指示で最澄が唐の天台山に派遣され、宗派として認められる流れとなった。
宗派として認めるとは「年分度者」という朝廷が僧侶と認め人数を制限する制度に天台法華宗としての僧侶を含めて良いと決めたことによる。ただし、この時点で正式な僧侶になるには鑑真が興した3カ所の戒壇院での受戒であった。


年分度者 により、10年くらいの期間に20名が天台宗の僧侶なったが、6名が残り、他の僧侶は比叡山を降りて奈良のお寺に移ってしまった。戒壇の主体はまだまだ奈良の寺院の管理下であった。奈良の寺院から反発や批判も受けたが天台宗の確立、布教、僧侶の育成に尽力した。
新しいルールによる僧侶への受戒を目指して比叡山に戒壇院を築いた。最澄の入滅後、天台宗の新しいルールによる戒壇の設立の朝廷の許可が降りた。

822年:6月4日入滅
823年:一乗止観院を延暦寺に改名
866年:伝教大師の諡号を授かった。

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