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「じゃがいも」のお寺話19 初転法輪

煩悩の中には大きく渇愛と無明があるようです。
渇愛とは物を欲する気持ちを指します。喉がカラッカラに渇いて飲み物を欲しがるような精神状態でしょうか。そのような状態では人は正しく世の中を見て判断することができなくなってしまいます。その状態を無明と呼びます。
無明は憎しみや怠けや嫉妬や執着などの2次的な煩悩を引き起こすとされます。煩悩には様々なものが含まれるとされますが元をただせば渇愛と無明に集約できてこの2つが根源的な煩悩と言えるようです。
渇愛が無明を作り無明がさらに新たな煩悩を起こさせるという表裏の関係であり負のスパイラルの2大要素となります。渇愛と無明が集諦の内訳であり苦の原因とされます。

・滅諦(めったい)、道諦(どうたい)
滅諦とは渇愛と無明を基本とする苦の原因である集諦を滅すれば苦から解放されるという真理です。

お釈迦様の時代のバラモン教の思想では輪廻は良いことであり当たり前だと信じられていたようで、お釈迦様もその思想の中で輪廻を受け止めてはいたのだと思います。しかし、お釈迦様は悟りを開く過程の中で輪廻も苦の原因と考えるようになったのかと思います。前世の行いの影響を受けながら改めてこの世に生まれることは、また最初から生老病死の苦を繰り返すだけである。輪廻は苦の一つであるという思想だと理解します。
輪廻を止めることも滅諦の真理の一つと説明されます。輪廻から外れる、自分の輪廻を止めることを涅槃と呼び、滅諦として目指すべき状態と考えられています。
涅槃はサンスクリット語のニルヴァーナ(nirvana)の訳でニルは外、ヴァーナは吹くの意味で、外に吹くことから仏教では煩悩が全て消え去った状態をいいます。本来は煩悩を滅して悟りを開いた境地の意味なので、解脱、成道などと同じ意味ですが、輪廻を止めて涅槃に入るという説明で使われるので主に悟った人、仏陀(如来)が亡くなることを涅槃と呼ぶように思います。悟りを開くことは成道や解脱で仏陀が亡くなることを涅槃と言い分けているように思います。

道諦は滅諦の状態になるための原因、理由、手段です。八正道と呼ばれます。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つで八正道です。八聖道と表記されることもあります。
正しい見方、正しい考え判断、正しい言葉づかい、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい思念、正しい精神統一という8つの行動をすれば渇愛や無明が消えて苦がなくなり安寧な精神状態になれるという真理です。

この八正道は実践すれば苦がなくなるという仏教の基本思想としての真理を説いたものであり、八正道を元に修行者のあるべき姿や行動や思想が細かく決まっていくことになります。
八正道に元づいた修行生活を送れば解脱し安楽を手に入れて涅槃に入り輪廻を止めることができるのが仏教での真理だと説明しているのが四諦です。

その後の大乗仏教では各宗派で修行の内容や目指す目標も変わっていますが、お釈迦様の時代の仏教は八正道を守り解脱をして安楽の境地を手に入れ、涅槃に入り輪廻を止めることを目指したと言えます。今の上座部仏教でもほとんど同じだと理解しています。

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