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天才も凡人も必要なんだ 子どもに伝えたいことシリーズ

 子育てをしている中で、子どもの教育を考えた時に「自分の子どもに何かしら才能があった場合、どのような教育をするのが良いだろうか」という疑問が浮かびました。この疑問に関連して、「そもそも特別な才能のある天才とそうで無い凡人について、教えるべきことがあるかもしれない」と考え、将来子どもに伝える際の練習として今回のnoteを書きました。

目次
・天才と凡人の定義
・天才だけでも凡人だけでも、社会の発展は無い
・天才であっても見下さず、凡人であってもくさらず

○天才と凡人の定義
 まず、自分が考える天才と凡人の定義を整理します。
 まず天才は、「一般的な人々が、同じ時間をかけても到達出来ないレベルのことができる人」と考えています。数学や物理などの学問、野球やボクシングのようなスポーツに限らず、営業で日本一売り上げを上げる人や、日本を代表する大企業を一代で築いた創業者も含みます。凡人の人々よりもずっと人数が少ないのですが、やり遂げたことの大きさは凡人の人々が行ったことを遥かに凌ぐものです。
 次に凡人は、「天才以外の多くの人々」です。どんな人にも何かしら得意なこと、いわゆる才能はあると思っていますが、天才のレベルまでには至らないものを持つ、一般的な人々のことを指します。
 この天才と凡人に関して、子どもに伝えたいことが二つあります。

○天才だけでも凡人だけでも、社会の発展は無い
 まず一つ目は、「天才だけでも凡人だけでも、社会の発展は無い」ということです。
 凡人だけでは社会の発展が無いことはイメージしやすいと思います。凡人と同じ人生の時間を与えられた上で、圧倒的なことをやり遂げる天才は私たちの社会の限界を壊して新しい可能性を示してくれます。凡人だけでは、既存の社会維持だけで人生を終えてしまうかもしれませんから、天才は社会の発展上必要不可欠と言えます。
 一方で、天才だけでも社会の発展は無いと考えます。なぜなら、天才が自身の能力を発揮できる分野に集中するためには、他の人々である凡人が代わりに社会を維持しなければならないからです。例えば、数学など学問の天才といえども、日々生活するための安全な環境や、毎日ご飯を買うことができる経済環境の維持を学問と同時に行うことは不可能です。大企業を創り上げる創業者も、自分の会社を共に創り運営する社員やサービスを購入する消費者がいなければ、会社の成功はありえません。その社員や消費者のほとんどは凡人ですから、やはり天才だけでは不可能です。凡人は天才がその力を発揮して社会を発展させるために必要不可欠な存在なのです。

○ 天才であっても見下さず、凡人であってもくさらず
 二つ目に伝えたいことは、「天才であっても見下さず、凡人であってもくさらず」という価値観です。
 もしも天才であった場合、自分が得意な分野について他の人々ははるかに歩みが遅く、自分なら間違えないような誤りもたくさんしていると感じるでしょう。しかし、ある分野で自分よりも劣っているからと言って、人間的に相手を見下すことは許されることではありません。人は、自分が優れていると感じたい生き物なので、自分以外の人を見下して相対的に自分は優れていると感じようとしてしまいがちですが、それを乗り越えることが大切であるとも伝えたいです。
 凡人であった場合、天才と自分を比べて大したことができないとくさらないよう伝えたいです。自分自身を評価する時、行ったことの大きさを他人と比較するのは考え方の一つに過ぎません。天才の方が自分よりも偉大に思えることを成し遂げていたとしても、自分自身が行うこととは無関係です。くさらずに、自分自身が面白いと思ったことにどんどん進んで欲しいと思います。

 皆さんはどう思いますか。

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