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幸福と真実・自由・正義が交差する時

1月に『カバール帝国の崩壊』を見た

 『カバール帝国の崩壊』という長大な動画を、1月10日以降、日を分けて見ました。

 情報量が莫大であったのと、ゆっくり理解していく必要のある内容だったからです。

 数多の子どもの虐待・人○売買・臓○売買・アレレノクロム抽出に、いかに多くの聖職者・財界人・芸能人・著名人が関わっているのを知って、絶句しました。

 非道の中身もさることながら、加害者・被害者の数が膨大だったのが衝撃でした。

 それは、全地球規模で行われてきました。

 動画を見た時点では、長くても数十年――70~80年――という期間だったのかなとぼんやり思いました。

 確か、バチカンのどこかの地下にある、墓なのか、骸骨を大量に組み合わせた場所の画像を見た時のことです。

 あの所業が何世紀にもわたって行われていたと知り、またもや絶句しました。

 なぜ何世紀にもわたって行われてきたのか、なぜ飲血やアレレノクロム摂取が必要なのかというのは、デーヴィッド・アイクの本を読むことでわかりました。

何世紀にもわたって行われてきたこと

 「変身(シェイプシフト)」できるレプティリアンのハイブリッドは、「本来の姿を現わそうとするレプティリアンのDNAコードを止め、人間の姿を保つには、(中略)人間の血を飲むことだ必要なのだ」という(デーヴィッド・アイク『マトリックスの子供たち 上』p,323)。
 
 これは、レプティリアン血族が古代から現在にいたるまで行ってきたことです。

 加えて、彼らには、共感能力が著しく乏しいので、嘘を何度も吐くとか、残虐なことをしても、良心の呵責というものを覚えません。

 DNAレベルでそうです。

 アイクによれば、「ジョージ・ブッシュ、アル・ゴア、ビル・クリントン、ヘンリー・キッシンジャー、ロックフェラー家、ロスチャイルド家、エドワード・ヒースらイギリスの首相といった人びとも含まれている。そして、イギリス王室――そう、特に女王と皇太后は、その仲間だ」(同書p,324)という。

 彼は歴史的な背景も書いてくれているので、最初(古代)から計画的・意図的なものだったことがわかりました。

 神話や伝説で、子どもや女性が生贄にされた話が出てきますが、それは、こうした実際にあった出来事を描いている、ということです。

 ちなみに、この人名リストが、ほんの一部に過ぎないのは、このテーマを調べてきた方ならご存知の通りです。

無関心から抜け出て

 動画を見る前に、友人が、時々、都内地下鉄の構造画像とかディズニーランドの地下の話を、SNSでしていたので、ぼんやりとは知っていたが、都市伝説だと思っていました。

 これが自然な反応の一つかもしれません。

 単に、関心がなかったのもあります。

 無関心から、いつ、どういう状況で抜けるかは人によって異なるが、いろいろな情報に触れておくことは意味があります。

 だから、情報発信は、無駄ではない。

 話を戻すと、『カバール帝国の崩壊』を見た後に、友人のアップしていた画像をもう一回見て、笹原俊氏のブログを読んだり、その他、できる範囲で調べました。

 とんでもないところに自分は住んできたこと、この世界がとても危険で恐ろしいものであることを知り、愕然としました。

 これ以前に「無知は恐ろしい」ことを何度か体験したが、これ以後も、しばしば、この言葉を思い出したものです。

世界の裏を調べることは幸福につながるか?

 最近、ある友人から、「あなたが、世界の裏事情を調べることを見ていて思うのだが、果たしてそれは幸福になるのかと思う自分がいる」と言われました。

 友人がどれぐらいはっきり自覚していたかはわかりませんが、なかなかに鋭い質問だと感じたものです。

 自分が不幸になってもいいとは思いません。

 が、世界中で悪行がなされてきたことを知って、なお自分だけの幸福を追求するのは、何か違うのではないかと思う自分がいます。

 少なくとも、不正が不正として正されず、被害者の無念が晴れない世界に無関心になり、自分の幸福にのみフォーカスするのは違うと思います。

 もっとも、この考えを他人に当てはめようとは思いませんが。

自分にとって楽しいことだけにフォーカスする人々に思うこと

 2月に絶縁した友人やその周囲の何人かは、「世の中に無関心。自分のやりたいこと、自分の楽しいことだけやる」という人たちでした。

 Facebookでつながっていたから、元友人の彼は、私の投稿――DS、トランプ、子ども関連――を目にはしていたはずです。

 なぜなら、他の投稿には反応をしていたからです。

 目にしていながら、彼は、そこにはフォーカスしようとすら、しなかった。

 別の記事でも書きましたが、おそらく彼が自分自身の闇や未熟さと向き合うのが不十分であるがゆえに、外側の闇に向き合うのが恐かったのかもしれません。

 彼の、社会問題への無関心とも見える態度は、元々、社会問題に関心がなかったのに加えて、そうした内面の取り組みの不十分さがあったのかもしれません。

 彼は、日本の神話や文化への深い関心を持っていましたが、どこか、「自分にとって快適なこと」にのみフォーカスし、それ以外の、経済的困窮や公害で苦しむ人、子どもの虐待、貧困といったことは、視野に入っていないようでした。

 こうした態度は、彼だけに限らないでしょう。

 元友人をジャッジしようとは思いません。

 ただ、以前、ちらっと見ましたが、彼は、自分の住んでいる村の議員になることを将来のミッションに思い描いていました。

 今、社会のことに無関心なのに、一体、何をしていくのかと、今なら思います。

 政治に携わるには、そこに暮らしている人たちの状況に、どういう程度でもいいから、関心を持つことが欠かせません。

 少なくとも、「自分にとって心地いいことだけをする」というのが許されない世界だと思います。

幸福も、真実・自由・正義も、どちらも大事

 話が少しズレてしまいました。

 「世界の裏事情を調べることで、あなたは幸福になるのか」という質問を考えているところでした。

 幸福は人が生きていく上で大事なものです。

 でも、同じくらい重要なのが真実、自由、正義だと思います。

 そして、それらがないがしろにされてきた人たちがいて、我々も欺かれてきた。

 それを知ってもなお、自分の幸福だけを追求するというのは、まともな人であればあるほど、できないのではないでしょうか。

 知る前に戻るなら別ですが、戻れませんよね。

 そして、戻ることが無関心になることなら、やっぱりそれは違うのではないかと思うのです。

 これは、幸福と真実・自由・正義のどちらが大事なのかという、比較の話ではありません。

 どちらも、人が生きていく上で必要で、大事な価値です。

 しかし、社会への無関心と、どこかでつながっているような幸福は、何か、違うのではないか、と思うのです。

 映画『マトリックス』で言えば、プラグにつながれた幸福と、プラグを抜いた後の真実に目覚めた時のどちらがいいか、という話です。

 『マトリックス』では、主人公たちの仲間であるサイファーは、仲間を裏切って、プラグをつなぎ直すことを望みました。

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 彼にとっての「幸福」とは、大金持ちで、大邸宅に住んでいて、周りに美人がいて、著名人であるというような、言ってみれば、「欲望の充足」でした。

 そして、DSは、そうした欲望の充足が幸福だと、我々に盛んに喧伝し、思い込ませてきました。

 しかし、そうなのでしょうか。

 大変かもしれないけれど、私はネオのように、「プラグを抜いた後の真実の世界」を選ぶ人間です。

加藤鳴海、ドモン・カッシュ、刹那・F・セイエイ

 『からくりサーカス』という漫画の加藤鳴海という主人公がいます。

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 子どものことがあると、激怒して、とんでもないパワーを発揮します。

 序盤、たった一回だけ会った少年才賀勝の危機に、鳴海はかけつけます。

 もうなんて、カッコイイんだって思いました!

 鳴海を、私が好きなのは、彼の強さもありますが、弱いものが痛めつけられていることに真っ直ぐ怒るというところもあると思います。

 そういうのをストレートに出さないのが「大人」と思われていますが、本当でしょうか。

 彼は極めて真っ当な部類の大人だと思います。

 でも、確か、初登場時は19歳で、後で「19歳に見えない」と言われていましたね。

 実年齢は関係ない。

 彼は体の一部が機械になろうが、ボロボロになろうが、最後まで戦います。

 戦友の大半は死にます。

 でも、彼は歩みを止めない。

 『カバール帝国の崩壊』を見終わった後、加害者悪魔たちに怒りを抱いた時、激怒した鳴海の顔を思い出しました。

 そういえば、ゾナハ病という奇病で、たくさんの子どもたちが苦しむ場面がありました。

 その子たちの様子を見て、懊悩している鳴海の顔が焼き付いています。

 彼は、ドナルド・トランプ大統領のように、「子どもたちのために戦っていた」のです。

 自動人形と彼らを作った白金との戦いに次ぐ戦いは、傍目には、幸福には見えなかったかもしれません。

 しかし、鳴海の人生は幸福だったと思います。

 最終回、エレオノールと一緒にいるシーンを見れば、明らかです。

 でも、それは彼が戦い続けたからです。

 子どもたちのために、全世界の人々のために。

 Gガンダムのドモン・カッシュでも、OOガンダムの刹那・F・セイエイでもいい。

ドモン・カッシュ

刹那fセイエイ

真実・自由・正義と幸福が切り結ぶポイント

 この世界を良くするために戦う人にとっては、己の幸福よりも優先すべきものがある。

 だが、それは自分の幸福を諦めるというのとは違います。

 戦いの果てに、すべての人の幸福があることをどこかで知っているから、戦えるのです。

 私は私なりに、2021年前半、世の中に関心をもって向き合ってきました。

 この数ヶ月、そして今も、そこに何ら恥じるものはない。

 それは、幸・不幸という眼鏡では見えないものかもしれません。

 少なくとも、短期的な幸福という意味ではそうでしょう。

 しかし、自分の人生のある時が、真実・自由・正義を実現するために捧げられたのなら、そこに悔いや恥がないなら、その日々は、幸福だったと言えるのではないでしょうか。

 真実・自由・正義を求めることと、幸せを実現することが、どこかで合わさるなら、それは、「自分のやりたいことだけやる」というのでは味わえない、すばらしい世界を垣間見させてくれるのかもしれません。

 自分が、人間として、真に人間らしく生きたというのは、そういう状態でこそ、最も強く味わえるように思いますが、いかがでしょうか。


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