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引用10:運命は、勇気をもった人間だけが享受できる

 今回は、執行草舟『根源へ』(講談社、2013)より引用を行う。

 「誰がよりも、何を言われたかを考えよ」(『キリストに倣いて』)

 著者が「誰か」を知りたい人は、御自身でお調べいただきたい。

 重要なのは、「言葉」である。そうではないか。

「生命は未知なるものに挑戦する 運命を生きる」というタイトルのところからの引用である。

運命は回り始めると止まらない

“運命は回り始めると止まりません。だから、運命が回り始めると人生は怖い。怖くなければ人生ではないとも言い換えられます。” (p,150)

 人生に恐れを感じるのは、人生の出発点に立ったということなのかもしれない。運命が回っていなければ、その人の人生はまだ始まってさえ、いないのかもしれない。あなたは、運命の呼び声、召命を聞いただろうか。

運命の車輪

“シェークスピアはその『リア王』の中で「運命の車輪は回転する」(The wheel is come full circle.)と書いていますが、まさにその通りです。運命は車輪として回転し出し、回り始めたら、もう誰も止められない。車輪は、西洋の中世において「運命」を表わす比喩に使われた概念のひとつです。それを、シェークスピアがここで使用しているのです。” (p,150)

 タロットカードの10番目は「運命の輪」というシンボルである。回避することのできない運命、事件、または大きなチャンスの到来を暗示している。その車輪が回転したら、自分にも誰にもどうなるかわからず、止めることもできない。それは恐ろしくもあるが、そこにこそ、人生の本当の始まりはあるのかもしれない。

運命の輪


運命とは、自己固有のエネルギー

“運命は何と言っても、宇宙で唯一つの、自己固有のエネルギーなのです。どうなるかは、誰にもわからない。” (p,150-151)

 運命は一度回り始めると止まらないだけでなく、予測できないというのだ。予測して何かをする、期待通りにことが起こる。そうすると、人は安心するが、一度、己の運命を受け入れ、それに飛び込んでしまえば、そんなものはなくなってしまう。だから、人は運命を恐れる。だが、それが人生ではないだろうかと著者は問いかけるのである。

勇気のない人間は、安心を得ようとする動物になり下がる

“だからこそ、運命を生かすには勇気を持つしかないのです。ドイツの詩人ヘルダーリンは「運命とは、いずこにも安らぎえぬことである」と言っています。ひとたび回転が始まったら、死ぬまで止まることはない。安らぐことはできないのです。自分でもどうなるかわからない。だから勇気のない人間は、種としての動物のように生きるしかなくなってしまうのです。その結果、個性を圧殺して群れたがる。そして、安心を得ようとします。” (p,151)

 運命に生きる人間とは勇気を持つ人間である。勇気の有無が、真に人たらしめるか、あるいは動物に堕ちるかの分かれ目だと言うのである。ここでの「動物」は、むしろ「畜生」と表現する方が、精確かもしれない。
 個性をかなぐり捨て、群れたがり、それに沿わないものを同調圧力で押し潰さんとし、自分たちだけの安心・安全を得ようとして、毒薬を懇願するように仕向けられ、調教されているのは、動物でなくて何だろう。この一節を読んで、そう思ったのは、一人や二人ではあるまい。

勇気を持った人間だけが運命を味わえる

“運命とは勇気を持った人間だけが享受できるもので、動物には運命はありません。” (p,151)

 あなたに勇気はあるか。運命を享受しているか。自分の日常を超えたものを仰ぎ見ていなければ、混沌とした世の荒波を泳ぎ切ることはむずかしい。

環境という言葉をよく聞くのは、人間が動物化している証拠である

“動物にあるものは環境だけなのです。そう言えば、「環境」という言葉が最近多く使われるようになりました。これは人間が動物化している証拠なのではないでしょうか。魂よりも環境が大事になっている。” (p,151)

 鋭い指摘だ。こう問えるのは、著者が魂をつかまんとし、魂で生きているからに他ならない。
 1990年代半ば頃より、「環境問題」という用語が言われだし、今では見聞きしない日はなくなってしまった。これもまた、デーヴィッド・アイクのいう「PRS(問題―反応―解決)」であり、特定の方向に人々の知覚を誘導する操作・詐術のように思われる。与えられた「問題」を考えることが「正しい」「常識だ」と思わされている。だが、そうすることで、魂がないがしろになっているのではないかと言うのである。魂をなくしてしまったから、安心・安全(これもよく聞く言葉だ)と安楽に目を注ぎ、周りに無関心になっているのではないだろうか。

魂にとっては、環境などどうでもいい話

“魂にとっては、環境などどうでもいい話です。魂は、永遠を志向しているのです。” (p,151)

 こう断言できるのは、まさに著者がそう生きているからだ。
 世界の嘘や社会の欺瞞に気づいている人でも、心底から「環境などどうでもいい話」と言える人がどれだけいるだろうか。
 だが、もしこの著者の言葉を首肯できるなら、同種の疑問が自分の中にもあるということだ。「環境、環境というけれど、本当にそれは大事なことなのか」、そう思っていなければ、強い反発を感じるだろう。
 私は、環境問題を考えると謳う大学の学部を出た。そこでは、日常的に「環境」「環境問題」と見聞きした。それが最も重要な問題であると、誰もが考えていた。だが、著者は「どうでもいい」と一蹴する。学生時代の私なら呆然とするか、強く反発したに違いない。そして、反発しつつも、無視できない何かを感じたに違いない。むしろ、反発は、時に、最もそれに近づいていく扉であることもある。
 今はこの一節に反発は感じない。だが、容易く飲み込める言葉でもない。まだ、喉に引っかかった魚の骨のように感じている。

運命は、環境を破壊してしまうこともあり得る

“人間は、その運命を生きることによって、環境を破壊してしまうこともあり得るのです。ゲーテの「プロメテウス」という詩の中で、ゼウスから火を盗んだプロメテウスが、ゼウスに向かって「わたしを男として鍛え上げたのは、全能の時間と永遠の運命ではないか」という言葉を吐いています。そして、運命を生きたプロメテウスは破壊の神になってしまう。そういう破壊に向かうようなエネルギーが、運命というものの根源にあることは認識しておいたほうがいいでしょう。” (p,151)

 運命の根源には、破壊に向かうエネルギーがある。もし運命を生きるならば、そしてその根源の力を認識していなければ、環境を破壊してしまうこともあり得る。だが、そうではない可能性もある。いずれにしろ、自分をどこへ連れていくのか、誰にも確たることが言えないエネルギーを生きるとは、そういうことだ。それはひどく不安にさせるものであるが、だからこそ勇気が必要なのだ。そうでなければ、魂を、永遠を焦がれて生きることなど、できやしない。

環境が大事。なら人間やめますか?

“環境を破壊したくない、または何がなんでも平和に暮らしたいのなら、我々は運命を捨てて、つまり「人間」をやめて「環境に生きる動物」になるしかないということです。” (p,151)

 環境に配慮した生活、よく聴く言葉だ。だが、それは、人間をやめることになるのだと著者は言うのである。そうなのだろうか。反発を抱かないまでも、ここには無視できない、大事な問題があるように感じられる。
 もし「環境」や「環境問題」が与えられた「問題」であり、その解決策もまた、あらかじめそこに含まれ、それを推進するように誘導されているならば、そもそもの前提「環境は大事だ」を疑った方がいいのかもしれない。そこに注目することで、一体、自分が何から目をそらされているのか。「環境」の代わりに、見聞きしなくなった言葉や事象は何なのか、それを考えてみる必要があるのかもしれない。
 SDGsというのは、突き詰めれば、人間から人間性を剥奪し、畜生以下に貶め、管理する詐術であり、「真綿で首を絞める」暴力なのかもしれない。砂糖菓子のような表層に騙されるのは、環境が大事な畜生だけである。実際、SDGsの17項目の多くが、『共産党宣言』に原型があるのは、ただの偶然なのだろうか。

運命論と環境論の混同が、様々なごまかしを生む

“そもそも運命論と環境論は一緒に論じられるものではないのです。もともと、運命論は人間論であり、環境論は生物論なのです。その混同が現代では行われていると私は思います。特に原子力問題で混同によるごまかしが多いと思います。” (p,151-152)

 この混同は半ば無自覚に、半ば意図的に行われているように思われる。


“原子力というのは人間存在の運命にかかわる生命倫理問題であり、環境問題ではないのです。それを環境問題に格下げして、あたかも安全であるかのように装い、人々を錯覚させようとしています。” (p,152)

 原子力が環境問題ではないという指摘は、水俣病をはじめとした公害にも当てはまる。石牟礼道子の『苦海浄土』(河出書房新社)や緒方正人の『チッソは私であった』(河出文庫)は、この視座がわからなければ、全く本質を見失う。そして、この種の錯覚、運命論と環境論の混同が、そこかしこに見られはしないだろうか。

運命こそ、人間にとっての最大の問題

“運命というものは予測不能で、非常に怖いものですが、人間に生まれたからには最も魅力あるものと言えるでしょう。そして、人間には破滅を選択する自由もある。だから、覚悟がいるのです。歴史上に見る宗教、文学、哲学、芸術の最大の問題とは何かを調べてみるといいでしょう。それは運命です。” (p,152)

 運命ほど、古今東西のあらゆる宗教、文学、哲学、芸術を魅了したものはない。時の試練に耐えた偉大な働き、作品、営みは、運命を扱っていると言っても言いすぎではない。たとえそれが、二人の人間の間における悲恋であろうと、革命における人々の悲喜こもごもであろうと、重要な哲学上の概念であろうと、だ。時に悲劇においてこそ、運命の力は最も大きく描かれ、またそれに翻弄されつつも懸命に生きようとする人間の賛歌が描かれているように思われる。荒木飛呂彦の漫画『JOJOの奇妙な冒険』には、様々な人物がいて、単純な善悪や是非を論じるのは、むずかしい。彼らが織りなす群像劇は、運命の底知れぬ力と予測できなさを描いている。だから、この作品は「人間賛歌」と言われるのだろう。この作品の最大の魅力は、波紋やスタンドではなく、この運命の力のように思われる。

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前回の引用記事はこちらにある。


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