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あなたの歩みが、誰かを照らす光となる

 人生を道にたとえる。

 誰もが歩いたので、踏み慣らされ、はっきりと形の見える道がある。

 歩いた人が少ないか、一人だけなので、ほとんど形の見えない道がある。

 多くの人が注目しない人の人生とは、後者のようなものかもしれない。

反出生主義のページに見つけた懐かしい名前

 ふと思って、反出生主義について、ウィキペディアを見てみると、ショーペンハウアーと並んで、シオランという懐かしい名前を見つけた。

 これがどういう概念かというのは、ウィキペディアを見てほしいのだが、簡単に記しておく。

 一口に反出生主義といっても、複数の種類がある。

1.「誕生否定」すなわち「人間が生まれてきたことを否定する思想

2.「出産否定」すなわち「人間を新たに生み出すことを否定する思想」

 1の「誕生否定」は更に、1-1.「自分が生まれてきたことを否定する思想」と、1-2.「人間が生まれてきたこと一般を否定する思想」の二種類に細分化できる。

2の「出産否定」は、「生殖否定」「反生殖主義」「無生殖主義」 (英: anti-procreationism) とも呼ばれる。

 反出生主義(特に誕生否定)は、古今東西の哲学・宗教・文学において綿々と説かれてきた。ただし、それらをまとめて「反出生主義」と呼ぶようになったのは21世紀の哲学においてである。

反出生主義

 「子供は親・出生地・時代を選ぶ術がない点から、子供が同意なしに世界に生み出される」というザプフェの考えは、神秘学の観点から否定される。が、これらに無知であれば、ザプフェのような考えが3次元地球では、同意・支持を得られるのも理解できる。

 「哲学者のテオフィル・ド・ジロー英語版)は、世界中に何百万人もの孤児がいることに触れ、道徳的な問題を抱えた出産を行うよりも、愛情と保護を必要としている子供らを養子にする方が良いだろうと述べた」と、ウィキペディアにあり、この点は、もっともだと思った。

 そして、この反出生主義を抱いている思想家の一人として、シオランの言葉が引用されていた。

シオラン

 シオラン(1911-1995)はルーマニア人の作家・思想家。父はギリシャ正教会司祭。1937年からパリに行き、以後そこで暮らした。彼の文章はアフォリズムと短いエッセイという形式で表現された。日本語にも、多くの本が翻訳されている。

 私は、20~30代の頃、彼の本を座右に置いていた。

 一回手放したが、執行草舟が読んでいるのを知って、また一冊手に入れた。
 
 それは最初に手にした『涙と聖者』だった。

 一つだけ引用しよう。

バッハを聴いていると、神の芽ばえるのが見える。彼の作品は神の発生器である。

E・M・シオラン(金井裕訳)『涙と聖者』紀伊国屋書店、1990(1986)、p,84

 彼がバッハ、そしてオルガン作品を深く愛していたことが窺える一節だ。

 反出生主義のページには、『カイエ』の一節が引用されていた。

私が己を自負する唯一の理由は、20歳を迎える非常に早い段階で、人は子供を産むべきではないと悟ったからだ。結婚、家族、そしてすべての社会慣習に対する私の嫌悪感は、これに依る。自分の欠点を誰かに継承させること、自分が経験した同じ経験を誰かにさせること、自分よりも過酷かもしれない十字架の道に誰かを強制することは、犯罪だ。不幸と苦痛を継承する子に人生を与えることには同意できない。すべての親は無責任であり、殺人犯である。生殖は獣にのみ在るべきだ。

 エミール・シオラン 『カイエ』1957-1972, 1997

 このように思わせた感覚というのは、地球人の価値観・文化に馴染んだ人のそれではない。

 こう言って良ければ、スターシードの感覚に近いと思うが、彼がスターシードだったのかどうかはわからない。私の中では、「もしかしたら」という感じだが、確証はない。

 この一節からは、彼が世界をどう見ていたかだけでなく、子どもにとって、この世界があまりに過酷であることへの怒りと悲しみが感じられる。そこに自分が加わることは大変な害悪に思えたのだろう。

 しかし、彼が厭世主義者でなかったことは、彼の著作と、対談を読むとわかる。

 彼は、自分を訪ねてきた人に、またその人の後ろにいる読者たちに対して、友好的に接している。

 また、著書からは、この世界への苛烈な言葉を連ねながらも、懸命にもがいて生きようとしている姿が感じられる。

 だが、彼の歩みも、著書で述べられていることも、万人受けはしないし、今後もしないだろう。

自分の道を歩くことが、誰かの道を照らす光になる

 ただ、シオランのように、地球の価値観に馴染めないながらも、懸命に、自分の道を歩いた人がいたのを知ることで、自分が一歩前に進む力を得ることできる。そのように、私は感じるのだ。

 また、多くの人が歩いていない道を、必死に切り拓いた人というのは、後に続く者にとって、一種の先駆者なのかもしれないと思った。

 だから、私が歩いているこの道も、誰かが歩を進める力付けになるのかもしれない。

 私が、万人受けしない人を読んできたのは、同じものが私の魂にあるからだ。

 そこに共振するもの、あるいは憧れがあるからだ。

 おそらく私は、地球の価値観では、名を残すことはないだろう。

 だが、懸命に歩いて、自分の光を放ち続けることは、銀河の視点から見ると、大きな意味のあることなのかもしれない。

 爬虫類脳で現世利益的志向の強い家族の中では、私の読んできた本や学んできた事柄は全く共有できない。

 その意味では、家族に理解者はいないし、理解を求めもしないし、求めたことすらない。

 そもそも、爬虫類脳に、自分の枠組みを一時的にカッコに入れて、異なる考えを理解しようという意志は絶無なので、望むべくもない。

 だが、そういう環境・道を歩んできた人だからこそ、同質の道を歩んでいる人にかけられる言葉、表せる態度がある。

 ゆたかさんやホワイトさんが御自身のブログでやっているように。

 こういう人たちは、世界中にたくさんいると思う。

 だから、もし読書したり、音楽を聞いたり、絵画や彫刻を見たりする余裕があるならば、自分の困難を背負っていける力を見出させてくれるような著者や作曲家、画家などを探してみるといい。

 また、自分でも、自分の感じていること、人生経験、考え方などを、どういう形でもいいので、形にしておくといい。

 あなたが自分の人生に大きな評価を与えていなくても、その歩みが誰かを勇気づけることはあるのだから。

惹かれてきた言葉の引用

 最後に、何人かの人の言葉を引用する。

私たちは長い悲しみの果てでこそ、生きるとはどういうことかをはじめて理解するようになる。

シオラン『欺瞞の書』法政大学出版局、1995(1992)、p,53


かつて、哲学者がものを書かずに思索にふけっていて軽蔑を受けることはなかった。ひとが有効性の前にひれ伏してこのかた、作品が俗人の絶対となった。作品を製産しない人びとは<落伍者>とみなされている。しかし、この<落伍者>が前の時代には賢者なのであった。かれらは足跡を残さないという仕方で、われわれの時代の罪のあがないをしてくれることだろう。

シオラン『苦渋の三段論法』国文社、1976(1952)、p,48

被害を見ようとしない無意識と、再建する労をとりたがらない無意識、問題の存在を否定するものと、解決の道を諦めるものと、この二つの無意識のあいだにあってわれわれに必要なのは、明視と行動の道を探りあてることである。

ミシェル・ド・セルトー『文化の政治学』岩波書店、1999(1980)、p,5

僕たちは、人間が幾億人いようとも、自分であって絶対に他の人とは、置きかえられない人間にならなければならない。僕はこの人間の存在の極限に追いつめられたことを喜び、また悲しむ。この人生においては、こういう自覚は必ず不幸と苦しみとを招きよせるからだ。人間とは、まず悲しみなのだ。

森有正『森有正エッセー集成1』ちくま学芸文庫、1999、p,120-121

一冊の本がどこから生まれてくるのか、誰にも言えはしない。――とりわけ、それを書いた人間には。書物は無知から生まれる。本というものが、書かれたあとも生きつづけるとすれば、それはあくまで、その本が理解されえない限りにおいてなのだ。

ポール・オースター『リヴァイアサン』新潮文庫、1999(1992)、p,64

自らを無知なるものとして知ることが篤ければ篤いほど、人はいよいよ学識ある者となるであろう。

ニコラウス・クザーヌス『学識ある無知について』平凡社ライブラリー、1994、p,18

人間の偉大さとは、つねに、人間が自分の生を再創造することである。

シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『重力と恩寵』ちくま学芸文庫、1995(1947)、p,290

最も暗い時代においてさえ、人は何かしら光明を期待する権利を持つこと、こうした光明は理論や概念からというよりはむしろ少数の人々がともす不確かでちらちらとゆれる、多くは弱い光から発すること、またこうした人々はその生活と仕事のなかで、ほとんどあらゆる環境のもとで光をともし、その光は地上でかれらに与えられたわずかな時間を超えて輝くであろう。

ハンナ・アレント『暗い時代の人々』ちくま学芸文庫、2005(1968)、p,10

人間は真実の中でのみ結ばれる。しかしこの真実は、われわれを包み、われわれの本来の存在の根拠である偉大なる神秘を確認することと不可分である。

ガブリエル・マルセル(竹下敬次・伊藤晃訳、稲垣良典解説)『マルセル著作集3 拒絶から祈願へ』春秋社、1968(1940)、p,167

現代のように当り前のことが忘れられ、殆ど抹殺されている時代にあつては、当り前のことを言うために時代全体を相手とするような烈しい気力と正義感とを必要とする。

越知保夫『好色と花』筑摩書房、1970、p,28

多くの人たちが、聞いてくれる耳を求めている。そして彼らは、その耳をキリスト者の中に見出さない。なぜなら、キリスト者は、聞いて上げなければならないところでも、自分で語ってしまうからである。しかし、もはやその兄弟に聞こうとしない者は、やがてまた神にも聞かなくなり、神のみ前においても、いつもただ語るだけの人になってしまうであろう。ここに霊的生活の死が始まり、遂には、敬虔な言葉に窒息させられた霊的なおしゃべり、坊主くさい低い物腰だけが残るのである。長く、忍耐して他人の話に耳を傾けることのできない者は、他人の話をいつも聞き過ごし、話をほかにそらしてしまう。そしてそれは結局もはや他人の話そのものに注意を払ってはいないということなのである。

ボンヘッファー『共に生きる生活』新教出版社、1975(1939)、pp,95-96

聖なる者は単独だ。賢人はおのれの孤独の年齢を持つ。

エドモン・ジャベス『小冊子を腕に抱く異邦人』書肆山田、1997(1989)、p,67

読書とは事実おそらくは隔離された空間での眼に見えぬ者をパートナーとするひとつの舞踏、「墓石」との楽しい、熱狂的な舞踏なのである。

モーリス・ブランショ『文学空間』現代思潮社、1962(1955)、p,277

私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、逆に、たいして言うべきこともないのに意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから悩んでいるのです。

ジル・ドゥルーズ(宮林寛訳)『記号と事件』河出文庫、2007(1990)、p,277

世には汝以外に誰も進みえない唯一の道がある。この道はどこへ行くのか?と問う勿れ、ひたすら進め。「人は自分の道がどこへ導いて行くかを知らないときほど向上しているときはない」(ゲーテ)

ニーチェ(小倉志洋訳)『反時代的考察』ちくま学芸文庫、p.238-239

じっさい、筋道に沿って正しく考えているのなら、専門用語なんか要らないのである。普通の言葉で言えるのである。言えないなら、正しく考えていない、つまり哲学していない証拠のわけで、世間はそれを真贋の指標にできる。哲学は偉いことなんか何にもしていないのだ。

池田晶子『暮らしの哲学』毎日新聞社、2007、p,31

苦悩は業績であり、成長です。しかしまた苦悩は成熟でもあります。というのも、自分を超えて成長していく人は、自分自身へと成熟していくからです。そうです。苦悩の本来の業績とは、成熟過程にほかならないのです。この成熟は、外面的な依存にもかかわらず、内面的な自由に到達するということに基づいています。

ヴィクトール・E・フランクル『苦悩する人間』春秋社、2004、p,130

涙なき思想をまことの思想と呼ぶことは出来ぬ。

柳宗悦『柳宗悦コレクション3 こころ』ちくま学芸文庫、2011、p,49

世の中で偉大な何かを成し遂げるとき、そのすべては苦悩から生まれる

ルドルフ・シュタイナー(高橋巖訳)『シュタイナー・コレクション6 歴史を生きる』筑摩書房、2004、p,350


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