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20年ぶりのポール・オースターとすぐそこにある危機について

はじめに

ポール・オースターの「シティ・オブ・グラス」「幽霊たち」「鍵のかかった部屋」の3冊を前に読んだのはたしか20年以上前だった。そして、「よく分からないけどめちゃめちゃ魅かれる」と思った。

そして今回、こんなに歳をとったのだからなんか違う受け取り方をできるだろうかと思ったが、同じだった。よく分からないがやっぱり魅かれる。

「ニューヨーク三部作」の共通点

この3冊は全く違う3つの物語で、1冊でも楽しめるけれど、「ニューヨーク三部作」と言われるように、共通点がある。

「幽霊たち」のあとがきで訳者の柴田氏が言っているように、

登場人物たちが、「どこでもない場所」で、「誰でもない人間」になっていく状況

というところで統一している。

そうまとめると「なんのこっちゃ」っていう感じだとおもうし、「小難しいテツガクっぽい話なんかなーと思われそうだけど、文章はいたってシンプルで読みやすく、ストーリーも引き込まれる面白さがある。

形としてはミステリー。誰かが、私立探偵に調査を依頼したり、誰かが行方不明になったりして始まる。

しかし、事件は起きそうで起きないし、そうこうしている間に作家が私立探偵になったり、私立探偵と見張っている対象の立場が逆転したり、作者が誰かと同化したり…そして登場人物たちは自滅していく。

結局、誰が嘘をついていて、どういう事件だったのか?三冊の間に共通する人物はどういう役割を担っているのか?…など、考えてみても、すっきりした解答が得られない。

では、なぜこの本たちが、私にとってそれほど魅力的なのか?

それは、私がずっと「自分とは何か?」ということに困り続けているからだと思う。

これらの小説は、みんな「自分」の境界線なんて崩れてしまうものだよ、と語っているように思えて、とてもシンパシーを感じる。それでいて全く湿っぽくなくて、かっこいい。

例えば、『シティ・オブ・グラス』の主人公・クィンは作家なのだけど、「ウィリアム・ウィルソン」という名前で「私立探偵マックス・ワーク」を主人公としたシリーズものを書いている。

年月を経て、ワークはクィンにそっくりになっていった。ウィリアム・ウィルソンは彼を曖昧にしか描かなかったが、ワークは次第に生き生きしてきた。かつてのクィンから分かれた三人のうち、ウィルソンは腹話術師の、クィン自身は人形の、ワークは人形の演技に生気を与える声の役割を果たした。

実在しているのはクィンなのに、クィンは人形だという。そしてそのクィンに

「ポール・オースターですか?オースター探偵事務所の」

という電話がかかってきて、クィンは興味をそそられて私立探偵ポール・オースターに代わって依頼を引き受ける。オースターは物語の外にいる作者のはずだが、物語の中でも「成功した作家」として登場する。

『幽霊たち』では、私立探偵ブルーが、ホワイトに、ブラックを監視するよう依頼される。

ところが毎日毎日ブラックは部屋で物書きをしているだけ。何か月もたつと、ブルーは自分が監視しているか監視されているのか分からなくなっていく。

『鍵のかかった部屋』は、主人公が行方不明になった幼馴染みのファンショーの作品を出版し、その伝記を書く過程でファンショーに憑りつかれたような状態になる。(あー、面白い本なのにこんな一言で済ませてしまうなんて申し訳ない…)

生物としての体はあっても、自分が「自分だ」ということは何の保証もないし、一つの物語に過ぎないことを、何度も感じる。

「自分の境界」の不確かさ

日常生活の中でも、自分の境界線がゆがむことは多々ある。

例えば、誰かに共感して同じような感情を抱くとき、その人が自分の一部になってしまっている。

また、母親として「他人の子どもだと許せるのに自分の子どもだと腹が立つ」ようなことって、子どもが自分の一部のように感じてしまっているからだと思う。

そこを、違うよ、あなたはあなただよ、と分けてくれるのは、いつも他者からのまなざしだ。

子どもとふたりっきりの生活や、パートナーとの共依存的な生活など、人間関係がすごく狭まってしまう状況は人生のそこここにある。そういうときに「病んでしまう」のは、他者からの「あなた」というメンションが少なすぎて、自分の境界線を保つことが難しいから、ということも一因のように思う。

自分だけで自分でいられる人など、まずいない。友だち、地域社会、仕事関係などなど、私のことを個人の名前で呼んでくれる人がいる環境に身を置いていることは、人間として必要なことなのではないかなと思う。

そしてそのうえで、こういう本を読む楽しみがある。

20年前は、オースターの本にもっとのめりこんでいた。今は、距離をおいて楽しめる。

書くというのは孤独な作業だ。それは生活をおおいつくしてしまう。ある意味で、作家には自分の人生がないとも言える。そこにいるときでも、本当はそこにはいないんだ。(『幽霊たち』)

今の私が、自分の人生があると感じられているのは、たくさんの人に支えられているからだなあと、しみじみおもう。

おわりに

今回、オースター作品から「自分の境界のゆらぎ」について考えてみた。

でも、その魅力の理由は、まだまだほとんど分からない。まだまだ、楽しめる。


↑  私が読んだのは「シティ・オブ・グラス」だったけど、その後で柴田氏による新訳「ガラスの街」が出たのでしたー。こっちも読みたい




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