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ジェレミー・ブラック「蘇る地政学」

「歴史と地理は、力(パワー)の作用を規定する。力の射程だけでなく、計画し実行する能力を規定しているのだ。したがって、時間と空間における力――より具体的には外交政策と軍事行動――の研究は、国際関係と軍事史、諸国家および国家システムの発展を理解するための重要な要素である。」――Jeremy Black, Geopolitics and the Quest for Dominance (Indiana University Press, 2016), p. ix.

ジェレミー・ブラックはエクセター大学歴史学教授。近世イギリス史およびヨーロッパ史の権威であり、150冊以上の著書がある。日本では地図学関係の翻訳が多く、地政学に関する発言でも知られている。以下に訳出したエッセーで、ブラックは批判地政学とは距離を置く立場から「地政学の再興」という状況を概観し(*)、地政学的分析の有用性を強調すると同時に、その限界を指摘する。なお、本エッセーの翻訳については著者および外交政策研究所(FPRI)に許可を求め、快諾していただいた。

*批判地政学の観点からの現状評価については、『現代思想』2017年9月号の特集「いまなぜ地政学か――新しい世界地図の描き方」、特に山崎孝史「地政学の相貌についての覚書」と土佐弘之「地政学的言説のバックラッシュ」を参照されたい。

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地政学の再興

ハルフォード・マッキンダーらがこの言葉を1899年に最初に用いて以来、地政学は無定形の概念だった――柔軟であるだけでなく、論争を呼ぶ用語なのだ。様々な仮の定義が提案されているが、英語圏では普遍的に受け入れられる定義が存在しない。すべての定義は政治と地理の関係に焦点を当てているが、この関係の考察と提起は非常に多様である。この文脈では、政治は主に権力の構造と利用という観点からアプローチされている。地理的要因は様々だが、空間と位置、距離、資源はすべて重要だ。

地政学は通常、政治地理学全体ないしその一部を指す表現、またより具体的には権力の空間的ダイナミクスの研究として理解されている。実際には、地政学――それをどのように定義するにしても――や空間的ダイナミクスを叙述的な意味で理解すべきなのか、それとも規範的な意味で理解すべきなのかについては依然として不明瞭なままだ。そのうえ、「地政学の事実――様々な民族と国家の資源と位置」とジッヘルマンが二〇〇二年に名付けたものには客観的考察だけでなく主観的考察も含まれており、主観的考察の重要性は一般的に軽視されている。これは地政学の様々な次元についてあてはまる。

H.J. MacKinder, “The Geographical Pivot of History,” The Geographical Journal, Vol. 23, No. 4 (April 1904), p. 435.

第三の波

冷戦の終わりは大きな概念上の問題を提起し、地政学を完全に換骨奪胎すると同時に、この主題自体がその有用性を失ってしまったのかどうかという問題の検討を促した。結果的に、地政学の死という噂には何の根拠もなかったことが明らかになった。その代わりに、冷戦と関係する地政学に関する著述の第二の波に続いて、1990年からは第三の波がやってきた。

そのうえ、この第三の波の規模は相当なものだった。1990年から2014年にかけて、明らかに地政学的思考に捧げられた400冊以上の学術書が登場した。この400冊という数字には、より焦点が絞られた一国的な研究は含まれていない。加えて、地政学に関する書籍は、アラブ語やブルガリア語、中国語、チェコ語、英語、フィンランド語、フランス語、ギリシャ語、イタリア語、ポーランド語、ポルトガル語、ロシア語、セルビア・クロアチア語、スペイン語を含む、様々な言語で出版されている。出版の波があると言っても必ずしもアプローチや内容、論調の類似性を意味するわけではないが、地政学の問題と言葉が今でもどこまで重要な役割を果たしているかを示している。雑誌や新聞記事、大衆小説での言及に関心を向けるなら、この波はさらに大きなものとなるだろう。

地政学がもたらす洞察

地政学には多くの恩恵があり、たくさんの洞察をもたらしてくれる。他の多くの主題と同様に、それは分析だけでなく議論の、政策だけでなく論証の手段であり、これらのカテゴリは厳密に区別されているわけではない。

地政学は人間社会だけでなく、その活動が位置づけられる文脈とそれが活動する文脈にも焦点を当てている。したがって、地政学は人間の交流の基礎的な(ただし、しばしば暗黙の)構造と基盤だけでなく、政策を形作り、施行する際に含まれる問題も際立たせることになる。構造と基盤は人の手で作られる(国境であれ輸送網であれ)と同時に自然なもの(特に場所と距離、地勢、資源の利用可能性)でもあり、その影響は相互に依存する。

地政学の多くの要素は、たとえば海岸=後背地の関係のような構造と基盤の相互作用を説明する。まさにこの主題が扱う範囲の広さが、精密で簡潔な定義と類型を提示するいかなる試みにも問題を突きつけることになる。

地理と地政学が果たす役割を認めることと、地政学的な大理論との間には差違がある。それにもかかわらず、そのどちらに焦点が当たるにせよ、重要な問題は地政学用語を用いて、特に資源の利用可能性およびその結果としての特定地域の重要性から取り組むのが最適である。

地政学は、国際政治への地理(たとえば距離と近接性)の影響を論じる際の概念としても確かに有益である。これと結びついているのが交通の問題であり、地政学的考察が変化の理由を説明し、こうした変化の重要性を測る物差しとなる。

したがって、以前の諸世紀におけるスエズ運河とパナマ運河の開設とシベリア横断鉄道の建設の影響とまさに同じように、今日の地球温暖化の影響で海氷が溶け、北アメリカとロシア双方の北方に北極海を通る航路の開通の可能性も地政学的要素と地戦略的要素を伴っている。

北極海航路 The Guardian, October 5, 2011.

変化する地政学的知覚

地政学への回帰は重要な傾向であるが、あらゆる同様の傾向と同様に、このジャンルの強みと弱点を理解して、一時的な流行から質の高いものを見極めるために一定の慎重さが必要となる。

特に、分析としての地政学とレトリックとしての地政学という二重の、相互に関連する役割を理解することが必要だ。地政学的議論はそのいずれかに限定されるというふりをすることは、空間的アイデンティティーおよび権益の評価と国際関係の規範の理解における知覚(パーセプション)の重要性の大きさを見過ごしてしまう危険性を伴う。

もちろん、分析の一部となる根本的な現実もある。アルゼンチンは大西洋国家であり、チリは太平洋国家だ。ベネズエラでは石油が豊富に産出するが、スペインにはそれがない。ウクライナ人に聞けば分かることだが、近接は重要な問題であり続けている。

しかし、これらの特徴から生じる影響はそれほど明白ではなく、各個人がどう反応するかを評価する際には特にそうだ。マンハッタン住人の米国観を描く有名なニューヨーカー誌の風刺はこの点を見事に捉えて、心理的地理が政治的に重要な現実を作り出す上で主要な役割を果たすことを喝破している。

「9番街からの世界の眺め」“View of the World from Ninth Avenue” by Saul Steinberg, The New Yorker, March 29, 1976.

より一般的には、増加する世界人口のうちますます多くの割合が都市に住むようになっており、人間が作る世界が空間とその意味の現実と知覚により大きな影響を及ぼしている。たとえば、距離と路面に関する単調な詳細を重視する説明を好んで、地図は都市の人種的、経済的、社会的なあやを無視ないし過小評価するかもしれない。都市に住む者にとっては、人種的、経済的、社会的なあやという点で距離と路面が非常に重要なのだ。

しかし、地政学の性格が変化すると言っても、地政学的要素が重要ではなくなるということは意味しない。政策決定者と評論家の観点は、複雑性の一つの観点となっている。地理の問題は、大国よりも地域国や地方主体にとってより重要かもしれない。ヨルダン川西岸地区は、とりわけイスラエルの安全保障を巡るイスラエルと米国の敏感度が異なるために、この好例となっている。

この規模(スケール)の要素はこれからも重要であり続けるだろう。しかし、たとえば2000年以降のヒズボラとハマス、北朝鮮、イランによる長距離ミサイルの利用が示しているように、規模も技術によって変化する。

将来の地政学的議論

地政学的分析における主要な問題の一つは、ローカルとグローバルの両方のレベルで地理の影響が変動することだというのは今後も変わらないだろう。グローバルなレベルについて書くことが地政学に関する文献の大半を占めており、グローバリゼーションとグローバルな環境の変化の近年の重視だけでなく、グローバルな問題を扱うよう求める学術的、大衆的、また出版上の圧力も考えると、この傾向は続くのかもしれない。

しかし、ローカル――国家のレベルおよび国家以下のレベルとして理解される――は、地理と空間が政治に及ぼす影響を理解する最も重要な領域である。この影響の非常に広範に及ぶ性質のせいで、国際的な難題を評価するために、二項対立的な選択肢を用いることによってもたらされる魅力的な明快さに簡略化するのは困難だ。

将来の地政学的議論は、特殊なものの複雑性に取り組む一部の評論家の好みと、その他方で大雑把なアプローチの魅力的な簡明性の緊張関係を反映することになるかもしれない。大雑把なアプローチは多くの関心を集め続けるだろうが、それは全体像を明らかにすることにはならないし、しばしば誤解を招く尺度と投影法をもたらすことになる。

"Geopolitics Redux," The American Review of Books, Blogs, and Bull (June 2016)より。本エッセーは著者のGeopolitics and the Quest for Dominance (Indiana University Press, 2016)に基づいている。なお、目次は訳者が付けた。

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『海戦の世界史――技術・資源・地政学からみる戦争と戦略』

ジェレミー・ブラックの邦訳近刊として、ジェレミー・ブラック著、矢吹啓訳『海戦の世界史――技術・資源・地政学からみる戦争と戦略』(中央公論新社、2019年)がある。

甲鉄艦から大艦巨砲時代を経て水雷・魚雷、潜水艦、空母、ミサイル、ドローンの登場へ。技術革新により変貌する戦略と戦術、地政学と資源の制約を受ける各国の選択を最新研究に基づいて分析する海軍史入門。中央公論新社から2019年5月下旬刊行予定。416頁、3600円+税。


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