お医者さんとお坊さん

今日は、新たな試みの話です。

平安時代末期の歌人西行の作品に、たしかこんなのがありました。

『願わくは花の下にて春死なん その如月の暁のころ』

こんな気持ち、私も最近はよぉくわかるようになりました。
とくに散り際の桜吹雪なんて泣けてきちゃいますよねぇ…。       しみじみ(笑)。いや、笑えないか・・・。

さて、最近はちょっと事情があって『生と死』についていろいろと調べています。で、お盆以降の活動テーマを見つけました。寺社会の復活です。

がんに代表されるように、現代の病気においては、人間の四苦とされる「生老病死」の『病』の部分が長期化する傾向にあります。要は、患者が何年もかけて死に向かっていくという特徴があるわけです。病床であれこれと考える時間があると、「死」というものに対する恐怖や不安から患者さんたちにはさまざまな葛藤が生じ、場合によっては人格にまで支障を及ぼすこともままあります。病院勤務時代、そんなケースによく遭遇したものです。

となると、この死へ向かう過程での然るべきケアが必要となってくるはずです。残された人生の価値やQOLをいかに高め、いかに穏やかかつ幸せに死へ誘っていくのか。これもターミナルケアの一環であり、医学の務めなのではないかと、はじめは考えました。

でも、いろいろと調べるうちに、ここはひとつ宗教家の人たちに期待してみたくなってきました。日本の医療は、そもそもが寺院で行われていたという史実があります。日本で最初の国立寺院「四天王寺」には、敷地内に入院施設、介護施設、薬局、学校があったことを改めて思い出しました。

人間が死と向き合いそれを受容していくことは、かなり精神性の高い作業だと思います。近代西洋医学の産物である医学の世界の人だけでは、どうも心もとなく思えてなりません。アメリカの病院では牧師さんが余命少ない患者さんやご家族のためにスピリチュアルケアを提供しています。

日本で同様のことを行おうと思ったら、真っ先にお坊さんたちが思い浮かんできます。明治以降、日常生活から切り離されてしまった感がある仏教ですが、今日でも日本の葬儀の9割以上は仏式なのです。死を目前に控えた患者の内面的な事柄については、やはり宗教家の出番だと思います。

もしかすると、もっと日常的にお坊さんたちに死生観のようなものを説いてもらったらいいのではないでしょうか。地域の人たちが、元気なうちから『生と死』について考える機会をお坊さんたちに提供してもらうのです。

というのも、病医院は患者さんが死んだ瞬間から商売にはなりません。お坊さんは、人が生きていたら商売になりません。でも、「西洋医学は生きてる間だけ、お坊さんは死んでからだけ」というのは、死の準備期間が長い今日においては、どうも駄目なんじゃないかと思うのです。それでは生と死が断絶してしまうのです。実際には、両者はつながったものであるはずです。ここをお坊さんにつないでほしいのです。

原点回帰ではありませんが、お坊さんたちはもっと外に出ていって、『死の教育』を病院や地域に出前してみてはどうでしょうか。あるいは、医療も含めた総合寺院を作って、地域コミュニティの磁場になるというのはどうでしょうか。

こんなことを思いついた私は、お盆明けからお寺の住職さんたちと話してみることにしたのです。

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