#千葉ルー を読んで 僕の小さな #千葉ルー 体験

「千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話」

 ずっと読みかけでいて、忙しくなり、読めていなかった本。この本を買ったのは自分が今オンラインで日本語を教えてて、生徒に自律的な学習を促すにあたってどのような方法があるか、探っていたのもあったが、そもそも、僕自身が同じようににっちもさっちも行かないクソみたいな状況の中で、ずっと手を変え品を変えいろんな形で言語を勉強してきたことがあり、文化を受容して、言語を学ぶと、人は幸せになれるのか、という問いに一つの答えを出してくれていそうだったから、発売日してすぐに買った。

 タイトルがすでにどういう本かを語っているので本の内容は省略する。
 読んでいてすぐに、これはみんながみんなの「千葉ルー」体験を書くべきでは?と思った。自分語りしたくなるしするべきだと。小説家デビューできなくてもいい。文化に憧れ、言語を学び、何があったか、をシェアしあうべきでは?

 そういう思いで「#千葉ルー を読んで 僕の小さな #千葉ルー 体験」というタイトルにした。過去の自分のような人が読んでくれて、一つの光となれば、と思いつつ。

 以下、4章以降、読みながらメモを書いたものを直しながら、書きのこす。本当は書き直したいけど、時間がないので。

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 4章まで読んだ。この本の序盤に大事なことが詰まっている。一つは「俺にとって重要なのは、俺を取り囲む、このどこまで行っても日本って感じの全てについて、ルーマニア語で考えるってことなんだ」こんな金言はない。

 うまく行ってない人ほど、別の言語で自分の見えるもの、感じることを捉え直すことで新たな感覚を風景や感覚に意識的にも無意識的にも付与してくれるものだ。

 自分はパニック障害でにっちもさっちも行かなかったことがあった。その時も、英会話カフェとかに行って雑談していたことがある。何でそうしてたかって、楽しかったからだけど、ふいに「何であなたは英語を勉強しているの?」と聞かれた。とっさにでたのは「勉強してるんじゃないんだよ。普段考えていることを話すとなんかすごくリフレッシュされるんだ。多分脳の違うところを使ってるからかもしれないけど」と答えた。脳云々もあるけど、他の言葉で捉え直すことが、なんか良かったのだ。

 外国語を話す時、自分はやはり思考様式が変わるんだと思う。外国語を一生懸命に話している行為そのものがリフレッシュというのもあるが、新たなキャラクターを獲得できる喜びもある。

 序盤の良いところ二つ目「受験勉強はトラウマを植え付ける」というところ。言語好きなら受験英語が苦痛なのはなおさらだろう。

 僕もTOEICの時に自分は英語が大好きだったのに、これの点が低いのは能力がないんだな、と思ったりした。また、語学だけではなく、その他の学問に顕著だ。僕が子供の頃は計算マラソンなるくだらないものがあって、序列をつけられ(特に公文式の塾に行かされて、本当にひどかった)この本は教育によった植え付けられたトラウマの癒し、学び直しについてという、心強い本。

 そして、僕も学び直しが本当に楽しかった。今40代で、英語に関しては30代までたどたどしくしか話せなかったけど、自由にやろうと思って、YouTubeで好きな映画の動画とスクリプトを手に入れて、全部モノマネができるくらいまで完コピした。レクター博士、ダークナイトのジョーカー、シャイニングのジャックニコルソン、、頭がおかしな人ばっかりだけど、頭がおかしな人のテンションってこれ以上になく真似しがいがあってたのしい。かなり話せるようになった。セリフを覚えるのはもとより完コピするのがコツ。楽しいからできる。
 その他にもYouTubeで死ぬほど動画を見た。1番良かったのはあまりお勧めできないけど、イタズラ電話の動画。全部文字起こしされてて、何度も聞いて爆笑した。入眠時まで聞いていた時期もある。

 また理数系は無理と思っていたけど、職業訓練校でプログラミングを勉強したら、何のことはない論理的思考ができれば誰でもできる。インターネットがそもそも大好きだったので、作りたいものは山ほどあった。どんどん形にしていったら、プログラマになれた。

 そして、3つ目は「こんなマイナーな言語勉強しているの俺カッケー」という自意識への向き合い方。これは辛い状況にいて自分の存在価値が自他共に認められない時、とても大事だ。こういう、嘲笑されがちな感情に自分の中だけで認めること、これは閉塞した状況でそれでも光を見つけたい時にとても有効だ。しかし、少し注意したいのだが、自嘲的にこういう感情を認めないこと。「俺は厨二病だけど」とか思わない。ほんとに俺はすごいのでは?とガチで思いながらやる。これが大事だと思う。
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 自分は若いとき、よく旅行をしたんだけど、明白に言語化できた旅行の良さは「外国人になれること」だった。つまり、日本の、僕の住んでた名古屋の、同質性から離れられたのだ。千葉の自室にいて、前述した自分の目の前にある景色や感情をルーマニア語にする筆者と僕の場合は真逆の様で似ている行為。僕は外国にいって、その国の人たちは僕をみて外国の人だと思った。ほとんど同じことではないか。

 そう考えると、3章ぐらいから5章くらいまで殆ど日本での自分の身の回りの話が出てこず、完全に旅行記のように読めるし、「必ず村上春樹の話をされる」の件はもはや定住者の悩みのようだ。千葉の自室から意識はルーマニア並行世界のルーマニア語でのルーマニア人の様々な人たちとのコミュニケーションの中にある。

 我々はここでこの本を定住者の日記として読むことになるけど、これを持ってして、あんまり「元々能力のある人の偉大な話」として読みたくないという気持ちもある。読むとしたら、我々は日本の自室にいながら旅行者にはなれるが、定住者のようになるにはどうすればいいのだろう、という一つの生き方として読みたい。

 6章を読んだ。日本語で書かれた外国人の小説のことにすでに触れられていたが、ここでは辞書的な正しい言葉の権威性や、外国人やクイアによる言葉の可能性にふれている。また、翻訳されるのを前提とした言葉の可能性。これはすばらしい。この感覚はもしかして自分も持つべきなのかも。持ったら楽しいだろう。刺激的な章だった!

 5章まで、定住者の話だと思っていたのが、6章でそもそも並行世界を移動する旅行者の例えそのものがこの本の世界を正しく捉えていなかったことに気づく。言葉に移民することは、言葉を混ぜて作る、みたいな新たな世界を作って住む感覚なのかな、と思った。

 そして、7章で突然のクローン病の発症。しかしシオランの「シャツのように絶望を取り替える」という気楽さであまり病気のことを意に介さず、むしろ読書できて楽しい(そりゃ辛いだろうけど)という飄々とした感じでルーマニア人の小説家を紹介する。自分が病んでるときにこんな奴が友達だったら楽しかろう、と思った。

 さて、最後まで読んだ。過去はクソで未来など見えなかった青年が今、ルーマニアで小説家としてデビューして、次の目標をどんどん掲げる。批評家を振り向かせてやる、とか、日本で東欧文学を復権させる、とか。ある程度壁を突き破った人の次の野望として清々しい。

 最終章で、やはり、病気のこともあり、作者がルーマニアに行けない、地理的な問題がやはり立ち塞がる。行けるものならいきたいよ、と。ただここでやれることもあるんだ、て。そして同じ引きこもりの人に檄を飛ばす。

 実は僕もアメリカやイギリスの映画や音楽に憧れて歌や映画のセリフを完コピできるのにまだ一度も行ってない。僕も人生で2度も起こったパニック障害、名古屋から逃げて家族との距離を良好にたもちつつ、自分の身を立てること、社会と折り合いをつけることに精一杯で余裕がなかった。でもそれでもそれなりに英語は話せるようになり、今オンライン日本語教師として英語で教えながら、それなりに身を立てられるようになった。

 自分も言いたい。ここでできることはあるよ、と。

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[追記]2023/03/20
改めて読むと、この感想は本当に自分語り成分が多いですね。
この本は、映画コラムとしても楽しいし、言語コラムとしても楽しい本でした。

特に言語コラムとして楽しいのは6章で、外国人、クイアなどの少数者が言葉を変える可能性に期待を寄せているところ(筆者の済東さん本人も「日系ルーマニア語をつくる」と宣言します。)で、「言葉はネイティブのもの」という虚構に気づかせてくれます(もちろんネイティブの話す言語にも一定のリスペクトは必要です)。

これまで、日本語の歴史を考えると、日本語を変えてきたのは若者というマイノリティでした。とくに「みだれた言葉」として捉えられがちな「ら抜き言葉」「さ入れ」言葉など枚挙にいとまがありません。でも、「ら抜き言葉」は動詞の可能形を全部五段活用と同じにしようよ、という提案でもあり、それはそれで理にかなっているのです。

僕はある時期、英語の「なんていえばいいのかな」を「How can I say」とか「It's a bit hard to explain」とか言っていたわけですが、「Like,,,」ということばが流行ってくれたおかげで、一語で表すことができました。このlikeは文法的ではない、聞いていてイライラする若者言葉、ということを言われますが外国人の私にしてみると知ったことかです。ガンガン使うよ😀

こういうのが、いろいろなグループから発生すると痛快だと思いますね。


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