【エッセイ】中国伝来「碧筩杯(へきとうはい)」を今も味わう日本
著者:王敏(法政大学名誉教授、当財団参与)
「碧筩杯」ってご存じですか、「へきとうはい」と読んでいただきます。竹冠の漢字「筩」は筒の意味があります。唐代の名作『酉陽雑俎』(著作・段成式)に記録された酒の飲みかたです。蓮があれば飲めます。蓮の葉を傷めず茎の中途で切る、そしてきれいに洗った葉の広がりの中心部をつついて穴を開けて、茎との間の「通路」を通すのです。茎の長さは蓮の育ちぐあいによりますが1メートルもあるのがふつうでしょう、長さはお好みですが蓮の葉を両手で持ち、天を仰いで葉に注がれる酒を一滴一滴、吸い飲みするのです。
中秋の名月のころ、葉に注がれた酒には名月が浮かびます、周囲の山川が美しい、茎からしみ出す酒の味は、のど越しの味わいにうっとりします。唐代の詩仙、李白の「一杯一杯又一杯」と詩にした催促が聞こえてきませんか。
しかし、現在の中国人は「碧筩杯」は古典の中ぐらいしか目にしません。1982年の夏のこと、私は留学中の仙台から東京に出て、帰りに茨城県土浦市で降りました。駅前広場がにぎわっており、人混みをのぞいて回ると、初老の方がうっすらいい桜色の顔つきで蓮酒を楽しんでいる姿が目に飛び込みました。あたりに蓮の芳香が漂い、あの「碧筩杯」ではありませんか!とても貴重なもの見つけだし、全身に驚きが走ったことを今も覚えています。中国の古典で読んだことのある「碧筩杯」を日本で見出したときの、あの興奮を今も忘れられません。文字で知る「碧筩杯」が、今日の日本で生き続けているのです。
さて、「碧筩杯」はいつごろ日本に渡ったのでしょうか。
中国の晋代(265~420)に始まったとされる「碧筩杯」の習俗は、文人と貴族層に限られていました。明代(1368~1662)に入ると、庶民階層にまで広まり始めました。それは中国の人と物が日本に流れ込む足利時代から江戸時代の初めの時期と重なりました。安定した江戸時代では、日常生活を豊かにするものが求められる中で、碧筩杯が好まれ定着したと考えられます。
「碧筩杯」が日本に定着した背景を二つほど触れて見ます。
一つは、中国とインドの文明が合体した中国仏教の影響によります。そこでは蓮は汚泥で育ち、汚泥を浄化する「天人合一」のシンボルとされています。故に「天人合一」の通路に例えられている蓮の茎がストロー役として、日本で無理なく受け入れられたのではないでしょうか。
二つ目は寿命の短かった江戸時代では健康と長生きへの切なる希求があります。漢方医学の角度からも蓮酒は精神の鎮静、ストレース解消の効き目があると説かれています。
ちなみに、「碧筩杯」を今日においても楽しむことのできる場所と行事をご紹介します。横浜三溪園の「朝見蓮祭」、大阪万博記念公園の「朝の蓮見会」、長野県下伊那郡阿智村の辻野園、大阪市立長居植物園などの場所で、「碧筩杯」の文化体験ができます。百聞は一見に如かず、です。ぜひ足を運んでみて下さい。
では、「碧筩杯」を使って、あらためて挙杯しましょう。