男性誌の「恋愛幻想化」が問題を棚上げする〜『POPEYE』ガールフレンド特集から〜

男性性を見つめ直したい。
そういう気持ちが生まれたのはいつだったかわかりませんが、自分なりに調査し、言語化することで、自分でも反芻し問い続けていきたいと考えています。自分自身で見直し、検討するための文章。稚拙ではあるけれど「語ろうとしない」男性の目線から、等身大に現代のジェンダーの様相をとらえていこうと思います。

第一弾とかなんて大げさなことは言わないけれど、まず切り口の一つ目としてしっくりくるのが「男性がもつ女性観、あるいは社会に浸透した女性観に、メディアがどう寄り添ってきたか」ということでした。このことについてまとめていきます。(長いけど良ければお付き合いください)


雑誌のスタイルと女性


現代のジェンダーは、マス・イメージの水先案内人としての広告文化、消費文化によってつくられているといっても過言ではない。

図書館で手に取った諸橋泰樹著『雑誌文化の女性学』(1993)という書籍にはこのようなことが書かれていた。
これは70年代あたりから90年代までの女性向け大衆紙やコミック雑誌が女性に向けてどのようなメッセージを投げかけていたかを調査したものだ。

この本が刊行された90年代は、バブル期の雑誌創刊ブームが落ち着き、ある程度陰りが見えながらも「雑誌の時代の終焉と捉えてしまってよいかわからない」といった時代。まだインターネットもない。だから今とは明らかに状況が異なり雑誌メディアもあり方は大きく異なる「はず」だった。

しかし、ここで問題とされる「女性」や「恋愛」の描かれ方は今ある男性誌にもかなり共通しているのではないか、という疑問が湧いてくる。
理由のひとつとして、現代の雑誌文化というものは、読者のターゲット層を絞り記事や広告を制作するスタイルをとっている(と思う)。つまり閉じられた世界観で構成されているメディアだ。

これは雑誌が生き残るためのサバイバル術のようなもので、特定の物好きな読者の満足感を高めリピーターを増やす。物好きしか買わない紙メディアにねちっこく文句をつける人は少ないため、炎上リスクも高くない。つまり特定のユーザーの意識に寄り添うことが基本スタイルなのだ。

今回はこと恋愛に絞って、20~30代男性向けライフスタイル誌『POPEYE』の年に一度の特集である「ガールフレンド」特集について過去4号を取り上げながら、90年代に指摘されていたことと比較しつつ今ある若者向け男性誌が女性や恋愛をどう描いているのかを考えてみる。


「ガールフレンド特集」における引っかかり


POPEYEガールフレンド特集は2013年の「デート特集」から始まり、毎号少しずつ内容が変化しているものの、(少なくとも2017年号から確認できる範囲で)共通しているのが①デートプランの紹介が非常に充実していること、そして②ご機嫌取りの手段としてプレゼント向けアイテムが紹介されていることの2つである。

ライフスタイル誌ということもあり、恋愛についての特集でありながら「こういう消費をすれば楽しいデートや快適な恋愛を送ることができる」というメッセージに満ちている。しかしさすがというか、消費の質は非常に高い。高すぎて背伸びしないと届かないようなロマンティックさを感じさせる。

しかし「恋愛と消費を結び付けすぎている」という点以上に、当誌における「女性の描き方」には、オブラートに包んでいるにせよジェンダーの視点から大きな問題が垣間見えてくる。

2017年からの各年の特集をかいつまんでみていこう。

2017年 特集ガールフレンド

2017年号で目に付くのは「31日の Thank you Olive」である。彼女がいないシティーボーイが年末年始を幸せに過ごすためにやるべきことがまとめられている。喫茶店情報からカルチャー見聞、ひいてはプロポーズ手段までひとまとめにされている。
このページにおいて「付き合ってしばらくたったら、自分の行動を見返してみよう。」というテーマのもと「手料理へのコメントどうしてる?」という見出しのテキストがある。

内容は「彼女が手料理を作ることが当たり前になって、コメントしない、もしくは「うまい」で済ませていないか?感謝の気持ちを込めて「お店やれば?」と言ってあげよう。言いすぎるのも逆効果だけど。(原文ママ)」というもの。

パッと見ればわかることだが、女性が料理を行うことは「当たり前」であって、その行いに対するコメント力をあげようというものだ。「いつも彼女に家事を任せきりにせず手伝う、自分から進んで代わる、きちんと分担する」などの言及は「一つもない」。

この典型的なステレオタイプは女性への無償の労働として家事労働を一方的に負担させるものであって、このページのメッセージはこうした価値観を再生産してしまっている。料理にいそしむ女性を労うならば、粋な言葉を考えるより、居間で料理が提供されるのをただ待っている自分を疑って行動するべきだ。さらに「お店だせば?」というのが感謝の気持ちというのもよく理解できない。
なお、2016・2017号のみ表紙タイトルが「POPEYE Magazine for City Boys」から「POPEYE Magazine for City Girls」となっている。(が、内容は男性向けのもの)


2018年 ガールフレンド’18

2018年号は、ほぼ2017の構成を踏襲している。
「シティーガールに出会うために」ページの締めくくりとして、「ラブホ街のいい店を知っておく」という、過去4号で唯一セックスをにおわせる内容が取り上げられている。しかしあくまでワンコーナー。しかも「におわせる」だけであり、決してセックスなどの直接的な表現を用いないところに編集部のこだわり(?)を感じる。この記事は要約するとラブホ街であってもいいお店があるのであれば堂々と誘うことができ、「酔いが回ったらもちろん、「この後どうする?」だね」とラブホへのお誘いまでセットでできるよ、ということらしい。


2020年 ガールフレンド’20


さきに2020年号を紹介しておく。この号における最大の特徴は、「Think About Wedding いつか結婚するかもしれない、そのときに備えて」というページだ。カップルが目指す「未来のゴール」として結婚が掲げられており、結婚への道のりとして結婚指輪、結婚式、マリッジブルーについて想像しようと書かれている。しかし結婚にむけて、というテーマながらかなり断片的であるように感じる。

実際にはひとくちに結婚といっても、多様な選択肢や越えなければならない障害も多いが、取りあげられているのは「指輪・結婚式・マリッジブルー」のみだ。

一応扉ページで「カップルの在り方もさまざまだから、結婚だけがすべてじゃないとは思う」と書かれてはいるものの、事実婚や同性婚などの具体的な「ゴール」の多様性、家事育児や異性間コミュニケーションの問題などには触れていない。「そんなの触れるのは野暮でしょ」と思う方もいるかもしれないが、誌面の世界観からこうした問題が一切排除されている、という点には怪訝な目を向けざるを得ない。

またもう一つ象徴的なのは、唯一憂慮すべきこととして挙げられている「マリッジブルー」に関して、その対処法として「映画や本を読んでおく」という切り口をとっていることだ。カルチャーを消費することを促すばかりで、解決に向けた直接性や具体性に欠けている。
ちなみに、最新号であるこの号が、費用や「ロマンティックさ」を抑えたデートプランが最も多い印象だった。


2019 シティーガールたちよ!

2019年は特殊な号で「ガールフレンド」特集ではなく、「シティーガール」特集。
20人以上の女性アーティストにインタビューを行った「シティーガールへのインタビュー」がメインコンテンツであり、さらには「シティーガールは本を読む」と題して『ヒロインズ』の訳者へのインタビューなど、女性読者を想定した特集が組まれている。
その導入はこのように書かれている。

シティーガールたちよ!僕たちは、まだまだあなたのことを知らない。教室で掃除をサボっていたら怒っていたあなたたち、毎日のように太ったかやせたか聞いてくるあなたたち、なぜかめちゃくちゃいい匂いがするあなたたち、「今日はたくさん歩くよ」といったのに、ヒールをはいてくるあなたたち、理解できないこともたくさんあるけれど、あなたが毎日元気で楽しそうにしていると、ぼくたちもとても幸せです。だからシティーガールたちよ、ぼくたちはあなたたちのことをもっと知りたい。


 特集ページ一つ一つを追うと、女性に向けたメッセージに見えるが、導入、中書き的ページ、そしてそれ以降の後半ページはきっちり男性に向けたメッセージも充実している。女性に読んでほしい!という体を保ちながら、その実「男性から女性への眼差し」が根底にはある。そしてその最終的な着地点として「では、そんなシティーガールのために僕たちがしてやれることは?」という視点からいつものデートプラン、プレゼントによる「消費」へと促す。

以上4冊を通して痛感するのは、(たびたび批判されることだが)同性カップルが「一組として」でてこないことだ。読むべき小説の一つとして同性愛をテーマとした小説などは出てくるが、提示されるモデルカップルは異性カップルのみだ。


結局、20年前の女性誌と問題は変わらない

ここまで見てきたように、よりよい恋愛のためのより良い消費、というメッセージがガールフレンド特集の中心である。

これは諸橋氏がすでに危惧していた事態である。クルマからセックスまで、買って消費すれば欲望を満たし幸福を獲得できる社会は、「豊かな社会」の美名のもと、人々の不能化・他律化を促進し、現状に対するかりそめの満足感・肯定意識を昂進させる。「このような商品・サービスやケアがなくては何もできないように思わしめることで、文化的な統合、「意識の植民地化」は完了」するのだ。

90年代女性誌と微妙に異なるのは、当時の女性誌においては男性の欲求にいかに適応できるか、という問題を解決する手段としての消費であったという点だろうか。経済的自立が難しい状況にある女性の「生きる手段」として男性に寄り添うことが社会的にも求められてしまっているので、「ステキな男性をゲットしよう!」「男性から魅力的に見られよう!」と、より焦燥感を煽る。まるで「これを消費するしか選択肢はない!」と言っているようなものだ。さらには当時の心理学・宗教などのブームによって浅はかな心理主義が「その因果を個人の心理やありように」還元していた、とも諸橋氏は述べている。

そう考えると、現在のPOPEYEはここまで露骨ではないし煽情的ともいえない。しかし、これは男性にとって恋愛は、経済的社会的自立とは別のベクトルで考えて構わない、という下部構造があるからである。むしろ恋愛とは自身の経済的社会的自立の先にあるもので、まるでマズローの欲求段階説の最上位、自己実現の一環であるかのように語られている。おしゃれなお店やロマンティックな展開、定期的なプレゼント…...それらを演出できる男の余裕は、自己実現の一環として読者には魅力的に映る。そして、そうした余裕は自立の証である。だが裏を返せば、男性誌だけが余裕があるデートプランを記事として取り上げるということは、男性が社会で活躍し、女性を経済的に支えるという男性中心社会における性別役割分業が恋愛関係にも強く反映していることを意味する。

POPEYEにおいては、例えば2019年の「女性目線」を意識したシティーガール特集という体裁でパッケージ化したり、カルチャー消費といった間接的な消費をアピールしたりすることで、この強力な下部構造をオブラートに包んでいるものの、やはり前提にあるのは男性中心社会なのだ。

また、結婚観について、ガールフレンド特集では生じる問題を棚上げし、結婚の断片的な側面だけを取り上げていた。この点について、諸橋氏は90年代の女性誌もまた結婚をゴールとして描き、「最終的には精神的経済的安心立命を得、社会に見せびらかすための制度的結婚に「若さ」というリソースを失うとされる前に至ることであって、事実婚や別姓のすすめ、離婚可能性や家事・育児の負担の大変さ、恋愛関係のみではゆかぬコミュニケーションの問題等は間違ってもここに登場しない」「子どもの問題、財産・相続の問題、イエや自分たちの老後の問題などは周到に排除され」ていると指摘している。男性誌と女性誌で、視点と立場は異なるにせよ、結婚の描きかたの構造はまったく一致していることがわかる。

さて、さらに象徴的な比較対象として、2019年の「シティーガール特集」についてもう少し深堀する。
もう一度導入の部分を見てみよう。


シティーガールたちよ!僕たちは、まだまだあなたのことを知らない。教室で掃除をサボっていたら怒っていたあなたたち、毎日のように太ったかやせたか聞いてくるあなたたち、なぜかめちゃくちゃいい匂いがするあなたたち、「今日はたくさん歩くよ」といったのに、ヒールをはいてくるあなたたち、理解できないこともたくさんあるけれど、あなたが毎日元気で楽しそうにしていると、ぼくたちもとても幸せです。だからシティーガールたちよ、ぼくたちはあなたたちのことをもっと知りたい


 この導入から分かるように、この号における動機づけは「女性のことがわからない」ことからきている。


 諸橋氏は女性雑誌の典型例として「不可解な男性心理への恐れ」をあげている。男心がわからないと不安心を煽りつつ、その理解のために消費を求めたり、心理テストでタイプわけを行い、「男性中心社会の支配的な常識や道徳にあわせ適応する」ことで彼らに獲得されることを目的とするとしている。異性への不安煽情に対する指摘の中で最もクリティカルなのは「わからないという予断を与えておいて「わかる」ための記事を売れさせるための、マッチポンプ的な巧妙な商売上のトリック」であるという指摘だ。


 この指摘を参考にすると、「シティーガール」をテーマとしながら、男性に向けて導入で「わからない」を、中書きの扉ページでは「彼女らにしてあげられること」というメッセージを前面に押し出し、その後消費を促す、という構造もまた、20年前と何一つ変わっていないことが分かる。ただしPOPEYEでは「異性がわからない」読者をから「消費」へつなげる過程はかつてのような心理主義ではなく、徹底した店舗リサーチ、ネットではなかなか手に入らないであろう、独自の情報の質の高さが担保している。


現実から切り離された恋愛観


 ガールフレンド特集で提示されるデートプランや求められる振る舞いはいずれも「紳士的かつロマンティック」なものである。
ここで私は雑誌を眺めながらふと思った。「このデートプランや振る舞いを、どれだけの男性がこの通り実行するのだろうか?」と。


少なくとも、自分はやらない。正確には「あこがれるけど、やらない」といったところだろうか。これは大半の意見かもしれない。

デートプランを隅から隅まで計画してくれ、12月に彼女をゲットして交際関係を保つためのTo DOリストを懇切丁寧に提示してくれてはいるが、その通り実行する男性は、よほどのPOPEYE信者だとしてもなかなかいないだろう。参考にするのは紹介の一部、「良さそうなお店」「良さそうな映画」だけだ。また雑誌のメッセージとしても、先述したように、男性と女性の経済的社会的優位性の差から、かつての女性誌のように「これをやらないといけない!」と極端に煽ってもいないのだ。

 諸橋氏は80年代から90年代にかけて、女性誌の在り方にも寄与した時代精神として「早急に答えを求めプロセスや自分なりの努力を捨象した『マニュアル』」を「人々が重要視するようになった」と指摘している。

 このマニュアルという視点で見ると、ガールフレンド特集は「外見上マニュアルめいているが、マニュアルとして読まれていない」ということが指摘できる。つまり、ほとんどの男性読者はこの雑誌を「理想(でしかない)/幻想の付き合い方」として、それを夢想するために読んでいると考えられる。

だからこそ、特集誌面では交際・結婚で「現実に起こりうる問題」が「ひとつも」描かれない。つまり、閉じられた世界観のもとで恋愛を極端に理想化・幻想化しているといえるのではないか。そうであるならば恋愛が自己実現のフェーズとして描かれていることともつながってくるだろう。


 この視点で見ると、結婚における事実婚などの多様な選択肢、経済・家事育児・血縁・コミュニケーションなどの諸問題を特集から排除することもその象徴の一つといえる。さらに言えば生理や出産などの男女間の身体的差異や性知識に関しても言及はない。閉じられた世界観であるから、同性カップルも「一組も」紹介されない。徹底的な排除・分離が行われている。より過去の号2014、2015年号に関しても、見出しのみであるが、このステレオタイプを脱した恋愛観に踏み込んだ章立ては確認できない。


 そして、ここは女性誌と明らかに異なるところだが、「セックス」に関しても直接的な表現を避けていることも指摘できる。(確認できる限りで一か所におわせる表現があるだけ。)セックスもまた、性欲という自身のリアルに向き合う行為でありつつ、正しい知識や配慮が求められる繊細なコミュニケーションのはず。恋愛に必ず付随するものではないにしろ、ときには暴力性さえもつこのトピックを誌面世界における「恋愛」から完全に切り離していることも、現実問題からの徹底した切り離しという印象をうける。


 さらにもう一点、象徴的なのは「表紙」である。いずれもモデルや女優である少女の写真が表紙を飾るが、目立つのはその年齢だ。
2017年...16歳/2018年...12歳/2019年...19歳/2020年...15歳
と、あまりにも若い。想定される男性読者層はここまで若くないはずで、恋愛の特集であるにもかかわらず、未成年の少女が表紙に来ることは不自然だ。支配的な側面も感じさせ、言葉を選ばずはっきりいえば気持ち悪い。

ただ、なぜこのような表紙にしたのか。判断材料としてまず思いつくのは表紙として映えるという理由、そして雑誌の世界観にあっているから、という理由も想定できる。その世界観とは「現実諸問題から切り離された、過剰に幻想性をひきたてた恋愛」である。表紙を飾る幼きシティーガールと実際に付き合うことはないし、条例やモラル感に従うなら、多くの人にとって表紙のモデルは恋愛対象から自然と外れるだろう。だからこそ、リアルな対象でないからこそこの雑誌の根底にある「恋愛の幻想化」を象徴しているのではないか。

諸橋氏はマスメディアが広める男性の「理想の女性のタイプ」についてこう述べている。

自分のプレスティージをあげる見せびらかすための恋人には細めでロングヘアーの清潔感と処女性あふれる女らしく可愛いコを理想とし、ゲームとしてのセックス相手はそそる肉感的な女性を、という風にしっかり使い分ける意識を持っている。

つまり、「ガールフレンド」特集の表紙を飾る少女たちは、この矛盾する2つの欲求のうち、恋人に求める清潔感と処女性だけを切り取って象徴化した存在だといえる。まるで自分たちはセックス欲求など持ち合わせていないかのごとく蓋をし、見栄えをよくする。自分たちは問題を生じさせるような存在ではないのだ、安全な存在であると対外的にアピールするかの如く。

このように、ビジュアルでも内容でも現実問題を棚上げしたうえで語られる「シティーガールの生態」「紳士的な向き合い方」などの指南は、作り手と受け手のヘテロ男性同士で納得しあうための合言葉に過ぎないのではないだろうかと思ってしまう。


諸橋氏はこうも綴っている。


恋愛マーケティングの一環を成す雑誌は、「理想」の規範を与え欲望をめざさせ現在の自分が不幸であることを作り上げることによって、その幸福の基準に近づくよう、その基準に達するためには少なくともいくつかのアイテムを消費するよう煽る機能を有しているのは確かである。


現代の男性誌で捉え直すなら、「現在の自分が不幸であることを作り上げ」られるから、というより「徹底して幻想化された、特定のステレオタイプに基づく幸せを妄想する」ことが、消費の動機となっているのだろう。


ここまでガールフレンド特集を批判的に見てきたけれど、正直言うと、ひとつひとつのページや店舗情報でみたら、クオリティは非常に高く感銘を受けた。特に2020年号のデートプランは大学生くらい、つまり私のような世代の感性を正確にとらえていて、私自身も参考にしたいと思わされる内容だった。(自分がイマドキの若者の感性を持っているかはわからないけど)


だが、問題はその世界観を俯瞰したとき、恋愛という個人的かつ社会的な問題を大きく孕んだテーマでありながら、徹底的に問題の排除し、ジェンダー視点の欠落したメッセージを一貫していること、さらには、カルチャー・ライフスタイルを中心としたビジュアルの良さで蓋をしている、この不気味さだ。

雑誌は閉じた世界で、なおかつマス向けであるならば広告と消費を中心に制作される(のか?)。とはいえ恋愛、結婚、幸福論などいずれも本来は慎重に扱うべき内容を、それにまつわる問題を棚上げし、閉じた世界観の中で幻想的に見せること消費を志向させようと試みている。それが20年前と比べて間接的になったとはいえ、やはり本質は変わっていないのだ。しかも、あらゆる男性誌で同様のことが起きており、マイルドなぶんガールフレンド特集などはまだマシな部類なのだろうと思うと、かなり厳しい気持ちになる。


このように特定の社会意識やジェンダー観を強化・再生産し、それ以外の価値観を排除することがマス雑誌の得意分野でありサバイバル術だというのなら、それには疑問を抱かざるを得ないと思った。そして、この疑問を忘れることなく、自分自身の意識もより深め精査していかなければならない。




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