リトル・バイ・リトル
今日少し時間が空いたから家にあった島本理生さんの『リトル・バイ・リトル』を読んだ。
単刀直入に言う。
わからない。
しっかり文字を一つ一つ読んだ。物語を整理しながら読んだ。登場人物を頭の中で描きながら読んだ。主人公に感情を移入して読んだ。
ただ何もわからない。
この作品は第25回野間文芸新人賞を受賞している。だから著者が下手なのではなく、私が読むのが下手なのだろう。
まだ小説を読み始めて日も経ってないから読解力が足りなかったのかもしれない。自分にはまだ早かったのかもしれない。
もしくは私が大学2年生になってしまっているからかもしれない。
もし高校生の頃に読んでいればこんな青春に胸を踊らさせられたかもしれない。
私が高校生の頃なんてただの野球青年だった。もちろん思春期だ、好きな人はいた。ただ到底叶わぬ恋だと諦め、早く大学生になって輝かしいキャンパスライフを送りたい。可愛い子と付き合って、お揃いの服を着て、キスをして、、、なんてありきたりなことをしたいと妄想ばかりしていた。
結果はご存知の通り、彼女なし、金なし、唇もご無沙汰。
コロナのせいだからって開き直っている。
いや開き直ってなんかいない。きっちり下唇は噛んでる。私の唇はキスじゃなく悔しさを隠すためのツールと化してしまっている。
そんな卑しいことばかり考えている私にはそりゃ理解できないだろう。今この文章を書いていて理由がわかった。
しかし私は世のカップルを下唇を噛みちぎるほど妬んだり、幸せすら感じなくなるほど落ち込んだりはしたことがない。それどころかそんな憎みや落ち込みすら笑い話にしようと企む。いわゆるポジティブ人間なのだ。
私がポジティブ人間になった主な要因は私の母親にあるだろう。
私の両親は幼い頃に離婚して、私と2個上の姉は母親に引き取られた。離婚してすぐの頃の母親は生活費を得るためにアルバイトを掛け持ちして休まずに私たちを育ててくれた。誕生日やクリスマスはしっかり私たちの笑顔を作ってくれた。そんな忙しくても笑顔を絶やさない母のことはとても尊敬をしている。
そんな母親の性格が知らず知らずのうちに私に移ったのかもしれない。私がどんな困難や落ち込むことがあってもそれを笑い話にしようとするのはそんな母親からの影響だった。
この小説には実の母親を蔑む表現が多く出てくる。(著者はそう思って書いていないのかもしれないが、私の読解力ではそう感じた。)
そこで私の家庭との多少のズレを感じた。そのズレを修正できないまま物語は終わった。だから「わからない。」というズレた感想になってしまったのかもしれない。
本来ならそういう家庭だ、と解釈して読み進めるのかもしれないが、私にはできなかった。
別に主人公を蔑むわけではない。
著者を蔑むわけではない。
私自身を蔑んでいる。
そんなズレを修正できなかった私自身を。
もしこれが読解力を高めることで解決するのであればまた数年後に高い読解力を身につけたあともう一度読みたい。
その時には理解できると嬉しい。
ただ私はポジティブ人間。
これすら笑い話。
最後に私の座右の銘を書き記す。
「人生は大喜利だ。」
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