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全員への最適な配慮を諦めているかもしれない

私はどうやら、INFPではなくINFJの方が近いらしい。「優しい」と言われることもあるし、人類が目指すべきだと考える世界の理想像もよく考える。その実現に少しでも近づけるように、あるいは無意識的に不利益を被る人がものすごく気になってしまうのもあり、自分が関わった人ほぼ全てに、配慮を欠かさない。欠かすことができない。勝手に頭の中ですごく気になって考えてしまうし、自分にできることがすこしでもあれば体が動いてしまう。これはやめられないのだろう。

ここまでであれば、ただのいいやつ、って思ってもらえるかも知れないが、めちゃくちゃ配慮すべき対象が複雑に絡み合っている事が多い。さらには、大学生以降は特に、多様性について考えさせられる機会が増え、「社会課題」と言われる諸課題についても調べたり知る機会が増えた。そのおかげで眼の前に広がる社会には、自分の手に終えない、いまいまどうしようもない課題ばかりが複雑に絡み合い、ひたすら自分の目の前に見えるようになってくるのである。子どものときはクラスという非常に小さな(特に田舎育ちなので、かなり人数は少ない)集団内の配慮のみを考えていればいい節はあった。他のクラスの問題は、自分の目の前にはほとんど現れないし、自分ができることも殆ど無いので、大人がなんとかしてくれ、って思うことができた。

しかし、社会が広がればそんなことも言えないのである。自分が知恵の輪をほどいていくよりも速いスピードで、知恵の輪自身が増殖し、複雑に絡み合ってしまうように見えている。

こうした状態においては、自分ができるやつなんだ、などと言えるわけもなく、ただ崩れていく世界を、「もうどうとでもなってくれ」と思いながら視界に入れないで自分に閉じこもっていたい。正直その思いはある。しかし、まだそうしていたくないのも事実である。

自分が見えている世界は、論理で気合を入れて説明できるほど確実に検証はできていない。ただひたすら、周囲の感情と自分が持っている情報に基づく直感で出来上がっているので、他人と共有するのも非常に難しい。

ただただなんとも言えない圧に押され続けながら、社会という大波の中で立ち続けないといけない、そんなイメージである。いやあ、難しい。

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