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J研会員が中大の意識高い系コミュニティに紛れ込んだ挙句カンボジアに行った話

これは、中央大学の中でも意識高い系が集まるFLPを履修し、ゼミの研究のためカンボジアに渡った、あるJ研会員の物語である……

記者のスペック

文学部の♀。1年次にFLP国際協力ゼミを履修するために受けた面接で合格したためFLP国際協力ゼミを履修。
ちなみにFLP履修したさに中大を第一志望としてロックオン&受験した。

何で、J研会員がFLPを履修した?

一言で言うと、高校2年生の時に行った東京の私大説明会の中で、「実際に現地に行ってフィールドワーク調査ができる」という内容に魅力を感じたから。
当時、何となく「いつかは海外に行って日本とは違う世界をこの目で見てみたい」という、いかにも何も考えてなさそうなふわふわした思考回路を持っていた高校生だった私は、この言葉に見事に釣られて中大を第一志望としてロックオン&受験したのだった。

そして、入学して1年も経たないうちにFLPを履修するために受けた面接が集団面接だったんだけど、
他の人たちが「海外の日本人学校に通ってた時に難民の人たちと接したことがあって〜」とか、
いかにも読者諸君が「意識高い系(笑)」と冷笑するだろう内容でもあり、
自分の人生経験に基づいたしっかりした理由を面接で話していた中、
記者1人だけ「中学校の頃、地理の教科書に載ってた世界銀行の統計を見たのをきっかけに開発途上国の経済に興味を持って〜」というふざけているにも程がある理由を面接で話したため、
「やばいよ、みんな自分の人生経験に基づいた内容を話してて理由がしっかりしてるのに、自分は特に人生経験に結びついてないふざけた内容を面接で話しちまったよ。終わったわ。これは落ちたわ。自分が面接官でも自分を落としてる」
と思った。
ところがどっこい、落ちたと思っていたら合格したので、嬉しくて飛び上がった。だって、これを履修したさに中大を第1志望にロックオン&受験したんだもの。
記者の実例を見てもお分かりの通り、こういうふざけた理由だとしても大学側はFLPを履修する権利を与えてくれるので、興味がある人は1度面接を受けてみる価値は大いにあると思う。

(実は、記者が開発途上国の……特にアフリカや東南アジアの教育や経済の問題に興味を持ったのは、中学校の頃に5ちゃんねるの『やる夫はアフリカで奇跡を起こすようです』というスレを読んだこともキッカケなのだが、ただでさえ志望理由がふざけているにも程がある内容なのに、5ちゃんねるのスレをキッカケに開発途上国の経済や教育の問題に興味を持ちましたぁ!なんて面接で話したら100%落とされるので、口が裂けてもこのことは話さなかった。
たかが5ちゃんスレとバカにするなかれ。5ちゃんスレのくせにアフリカの教育や経済の問題、アパルトヘイトの時期の南アフリカのことが小学生にもわかりやすくまとまっていて、開発途上国の教育や経済の入門として十分オススメできる内容なので、読者諸君も読んでみてほしい。)

面接時に他の人たちが話していた内容からお察しの通り、こうして合格した記者は志望ゼミの選択に紆余曲折あって(本当は厳しいけど開発途上国の経済についてみっちり学べる某ゼミを希望していたけど、担当する教授が現地訪問がある3年生の時に授業を持たないって聞いたから別のゼミに変えることにしたんだよね)所属したゼミも、例に漏れずJ研会員やこれを読んでいる読者諸君から「意識高い系(笑)」と冷笑の対象になる人種が必然的に多く集まった。(そりゃそうだろ、わざわざ好き好んでゼミを余分に履修するなんて記者みたいな余程の物好きかそういうモチベーションのある奴しかいない)
……こうして、そんな意識高い系の巣窟に、意識高い系とは正反対の人種が集まるJ研会員が紛れ込むという事故が起きたのだった。

そもそも、何でカンボジアに?

これは記者が大学3年生の時。
意外にも私が「ポル・ポトは知識人を粛清の対象にしていた。周辺国と比べて開発支援の問題(特に、教育の問題)についてはかなり特殊な背景があるから、教育に興味があるんだったらカンボジアの方が研究のネタを探しやすいんじゃない?」という感じの提案をしたら通ったからだ。

カンボジア渡航記

というわけで、9月某日、記者たちはカンボジアに赴いたのだった。

トゥール・スレン虐殺博物館

現地訪問2日目。
虐殺の歴史を学ぶためトゥール・スレン虐殺博物館に行った。
そこで記者が見たのは、人を人として扱っていないというのを通り越したレベルの虐殺の証拠の数々と、もはや倒錯の世界と言っても過言ではない悪趣味極まりないブツだった……。
この時に経験したことは、カンボジアを訪問した時のことを思い出そうとすると、当時ここを訪れた時に見たもの、感じた気分の悪さを思い出すくらい強烈な体験になった。
トゥール・スレン虐殺博物館は実際に収容所として利用されていた時同様、展示室自体もA棟、B棟、C棟、D棟に分かれていたんだけど、実際に写真撮影ができたのは博物館の外だけだった。展示室内部の写真撮影が禁止されていたので、記者は博物館の中で展示されていたものを必死にスケッチ。そのおかげで一緒に渡航したグループの面々から置き去りにされかけたこともあったよ。

という前置きはさておいて、記者たちはベトナム軍によって発見された9人の犠牲者の墓の前と、収容所の規則が書かれていたパネルの前を通ってからA棟の中に入った。その時に書かれていた収容所の規則が……

収容所の規則の展示パネル。

・質問された事にそのまま答えよ。話をそらしてはならない。
・何かと口実を作って事実を隠蔽してはならない。尋問係を試す事は固く禁じる。
・革命に亀裂をもたらし頓挫させようとするのは愚か者である。そのようになってはならない。
・質問に対し問い返すなどして時間稼ぎをしてはならない。
・自分の不道徳や革命論など語ってはならない。
・電流を受けている間は一切叫ばないこと。
・何もせず、静かに座って命令を待て。何も命令がなければ静かにしていろ。何か命令を受けたら、何も言わずにすぐにやれ。
・自分の本当の素性を隠すためにベトナム系移民を口実に使うな。
・これらの規則が守れなければ何度でも何度でも電線による鞭打ちを与える。
・これらの規則を破った場合には10回の鞭打ちか5回の電気ショックを与える。

後になってこの規則の英訳を日本語に訳した時、記者が思ったこと。
「ちょっと待て!拷問の手口に電気ショックも使ってたのかよ!
拷問の手口に電気ショックを使うとか、北九州監禁殺人事件の犯人が被害者を従わせるために使ってた手口そのまんまじゃん!」
生き残った人が書いた本の中にも、通電を受けた時にどのような痛みを感じたのかが記述されていたけど、その描写がまた生々しいもので、「通電された人って、こんな痛みを感じていたのか。この世のものとは思えない痛みを感じたんだろうな」ということが想像できるというか……。

トゥール・スレン収容所の看守(注:大半が子供なので、以下『こども看守』)による拷問の手口、他にも色々と、北九州監禁殺人事件の犯人の手口を彷彿とさせられるものか、いかにも痛そう・苦しそうな内容のオンパレードだったから、「やられた人達はすごく痛い・苦しい思いをしたんだろうな」っていうのを通り越してこの世のものとは思えないような痛みだろうな、と頭でイメージできるような陰惨極まりないものばっかりなんだよね……。

という話はさておき。
記者たちがA棟に入っていきなり見たものは、何の変哲もない黒い鉄製のベッドと黒い弾薬庫。
そして……

その壁には拷問で殺された死体の写真が掛けられていたのだった!

いきなり死体写真(しかも、拷問で殺された死体写真)とご対面となると、グロ耐性のない人が見たら吐き気を催すと思う。
残酷な写真だけど、直視しなければならないたぐいのグロだと思う。
ちなみに弾薬庫は排泄(大きい方)をする用途で使わせていたらしい。僅かな生き残りの人が書いた本によると、容器から排泄物(大きい方)が漏れたら、こども看守はその排泄物(大きい方)を囚人に舐めさせていたらしい。
排泄をトイレでさせないことに加えて食糞の強要までやってたとかさぁ、それ、なんて北九州監禁殺人事件の犯人?
(※ちなみに、展示室を進んでいくと、小さい方をする容器も展示されていた。容器は給油ボトルだった。)

現時点で既に北九州監禁殺人事件の犯人の手口を彷彿とさせられる拷問内容のオンパレードで、読者諸君は既にこども看守の陰惨極まりない拷問の手口に気分が悪くなっていると思われる。
しかし、ここまではあくまで序の口。ここからは展示内容もこども看守たちがやらかした犯罪行為も、もっと陰惨でえげつないものに進化していくぞ。
ていうか、北九州監禁殺人事件の犯人も子供に実の親を虐待・殺害させてたので、子供にこんなえげつない拷問をさせているポル・ポトのやり口がますます北九州監禁殺人事件の犯人の手口そのまますぎて書いてるこっちが気持ち悪くなってきてるんだが。誰だよポル・ポトのことを『アジア的優しさ』って書いた奴。『アジア的気持ち悪さ』の間違いだろ

さらに展示室の中を進んでいくと、ベトナム軍によって撮影された、明らかに拷問の末に殺されたことがわかる死体の写真が展示されていた。
通訳の解説によると、A棟に入れられていたのは政治家などのVIP待遇の人で、一般庶民はB棟やC棟に入れられていたらしいよ。
(つまり、ベトナム軍によって死体の写真が撮影されていた犠牲者たちは、こうしたVIP待遇の人たちなんだよね……。)
更に通訳の人から拷問の手口についても説明がなされたのだが、その拷問の手口が……

・囚人の爪をペンチで剥がす
(北九州監禁殺人事件の犯人の手口じゃねーか!)

・水責め大好き。
単純に顔を水に沈めたり、逆さ吊りにして水に沈めたり、階段の段差の方に仰向けに手足を拘束して水に沈めたりと、実に多種多様な手法で水責めをしていた。

・ムカデやサソリを使う

・バレーボールコートを使って囚人を吊し上げ

・(先述の)鞭打ち、電気ショック

ちなみに、こども看守はこうした拷問をすることで囚人に「自分は【CIA or KGB or ベトナム】のスパイです」と嘘の自白をさせた後、キリング・フィールドに連行されて銃で頭を撃ち抜くか、棒で頭をかち割るかして処刑したらしい。

さらにA棟の展示室を進んでいくと、パネル資料だけではなく、様々な実物資料が展示されていたよ。
展示されていた実物資料を挙げていくと、ポル・ポトら幹部陣のご尊顔が写された写真や、全身黒いシャツとズボンに赤いスカーフ姿というクメール・ルージュ軍の軍服の実物、ポル・ポト政権下を生き残った子供の着衣、実際に使われていた食器、そして虐殺の犠牲者が実際に着用していた黒いシャツなどなど。
ちなみに、犠牲者が実際に着ていた黒いシャツについては、パネル資料の中で1980年代頃に着衣の山という形で展示されていた様子が写真に写されていたから、このパネル資料を見た時、記者は「アウシュビッツに展示されている犠牲者の衣類や持ち物の山みたいだ」と思ったよ。
他にも、パネル資料には当時ポル・ポト政権が行っていたプロパガンダの内容についても紹介されていたよ。
そのプロパガンダの内容は「紙はいらないから働け!」「鍬があなたの鉛筆で、田んぼがあなたの紙です」といったものだった。
まさに「カンボジアに教育はいらない!」と言わんばかりの内容で、「ポル・ポトはマジで教育を廃止しようとしてたんだなぁ……」と思って心底身震いしたよ。

次にB棟の中に入ると、記者が目にしたのは部屋に置かれていたパネルの上から下までびっしりと飾られている収容者たちの写真、写真、写真!
この写真は収容所に入れられた直後に撮られたものだから、当然、展示されている写真に写っている人たちは全員、ここに送られたのちに亡くなった人たち
だから、この写真はここに送られた犠牲者たちの遺影であり、犠牲者たちが確かにこの世に生きていた唯一の証でもあるんだよね。
しかも、彼らは自国民も外国人も「平等に」「えげつないやり方で」殺したから、犠牲になった自国民だけではなく外国人の写真も展示されていたよ。インド人、パキスタン人、イギリス人……。そして、最も多くの犠牲になった外国人は隣国のベトナム人だった。だから、ベトナム人の犠牲が特筆して取り上げられていたよ。
こうした写真の数々を見てから最後の展示室で目の当たりにした実際の遺骨を見ると、「あの骸骨1つ1つに人間の顔があって、泣いたり笑ったりしていたのが嘘みたいだ」と感じた。

次に記者たちはC棟に入ったんだけど、他の棟は有刺鉄線が張られていなかったのに対して、C棟だけは当時の状況を再現するために有刺鉄線が張り巡らされていたよ。その有刺鉄線が張られている理由が恐ろしいもので、通訳の人によると「囚人の飛び降り自殺を防止するために」有刺鉄線を張っていたんだってさ。恐ろしい話だよね。「脱走を防止するために」ならまだわかるけど、「自殺防止のために」ってなかなかのパワーワードだよ。
何でも、拷問の内容がえげつなさすぎて窓から飛び降りて自殺を図る囚人が続出したから、それを防止するために有刺鉄線を張ったんだって。
「ナチスですら脱走防止目的で有刺鉄線を張っていたのであって、自殺防止目的で有刺鉄線張ってなかったのに……。」と、開いた口が塞がらなかった。
このエピソードだけでも、こども看守たちがやった拷問のえげつなさを察することができるってもんだけど、拷問の内容がそうなるのも納得できるほどのえげつないものだったから、

C棟の中には一般的な囚人たちの生活の様子について展示されていたよ。C棟の中に進むと、実際に使われていた独房がそのまま展示されていたよ。男の方はレンガ造りで、女の方は木製のもので、広さは成人1人が足を伸ばして座ることができるくらいだけど、1人で仰向けに眠ることはできないだろうなというくらいの広さだったよ。あと、壁に独房の番号が書いてあって、ここに独房の鍵をかけていたということを説明されたよ。
他にも、クメール語で「上には上がいる」という標語が残っていたり、黒板に書かれた英語の文字だったりと、独房として利用される前に高校の教室として使われていた頃の名残を思わせる遺物が残っていたり、床に拷問でできたのだろう血痕が残っていたりした。ちなみに通訳によると、年々血痕の劣化が進むから、それを防止するためにペンキで書き足しているらしい。

生き残った人たちのパネル写真


実際の拷問器具の1つ

D棟に入る前に1度外に出ると、この収容所に送られてきた7万人の人々のうち、わずかに生き残った7人(注・うち5人はのちに病死したので、今存命なのは2人)のパネル写真と、外で使用されていた拷問器具の実物とその紹介をしていたパネルがあったよ。拷問器具は囚人を吊るし上げる目的で使っていた鉄枠(注・元はバレーボールコートやロープクライミング目的で使用されていた)と、水責めを行う目的で使用されていた水がめの2つ。

そして、最後の展示棟であるD棟に突入していったんだけど、この展示棟には展示内容のショッキングさ、えげつなさ、残虐さという意味では全展示棟トップクラスの内容が揃っていた。
どれもこれも十分残虐な展示内容ばかりだったけど、この棟で見た展示内容はこれまで見た展示内容とは比べ物にならないほどの残虐極まりない絵、写真、実物資料、etc…が展示されていたよ。どれくらい残虐な展示内容だったかというと、グロ耐性には自信があった記者がカンボジアに渡航してから半年近く経った今でも、当時この棟で見たものと、その時に自分が感じたことを思い出すだけで吐き気を催すくらいショッキングな展示内容ばかりだった。

この棟に入ってからいきなり、記者はショッキングな絵を目の当たりにした。その絵はポル・ポト政権下を生き残った画家が当時の状況を再現して描いたものだったんだけど、その内容は入浴と称して1週間に1回、看守がシャワーと称して房の中に直接ホースで囚人たちに水をぶっかけるといったものだった。
その時、記者は「囚人のことを人間扱いしてない。完全に家畜としてしか扱ってないじゃん。子供に看守をやらせて拷問や殺人をやらせている分、やってることの残虐さのタガが外れている。ナチスの方が、まだ囚人を人間扱いしてるんじゃないか。こんなところにぶち込まれるくらいなら、まだアウシュビッツにぶち込まれた方がマシだ」と心の底から思ったよ。
だって、ナチスですら排泄はちゃんとトイレにさせてたのに、片やこども看守たちは排泄すらトイレでまともにさせないどころか、トイレ代わりに使用させていた容器からうんこがこぼれたら、それを囚人に舐めさせるっていう、人間の尊厳を貶めるところまで貶めてるというか、思わず「北九州監禁殺人事件の犯人とやってること同じじゃん!」ってツッコみたくなるレベルのことをしでかしてるんだから……。排泄の問題に関する内容だけでもナチス以上にこれ以上ないくらい人間の尊厳を貶めるような拷問態様だったのに、こども看守たちは、囚人たちをあからさまな家畜扱いするような仕打ちをしていたというのだから。
そもそも、「脱走を防止するために」有刺鉄線を張っていたという話は聞いても、「自殺を防止するための」目的で有刺鉄線を張っていたという話は前代未聞だし。食事についても、ナチスは(※極端に栄養が不足しているとはいえ)囚人に1日3食食べさせていたのに、こっちの場合は1日2食だけ、それもお粥だけだったらしいし。
こうしてナチスやこども看守がやらかした所業を比べてみると、ナチスはユダヤ人のことを使い捨ての奴隷として扱ってたフシはあるけど、こっちの場合は囚人のことを奴隷としてすら扱っていない、人として扱っていないっていうのを通り越して、「人間の尊厳を貶めるだけ貶めて楽しむためのモノ」同然にしか扱っていないだろうとしか思えないような所業をやらかしていると思ったよ。
やらかした所業に大小ないと思うけど、記者はこの絵を見た時、心の底から「子供に看守をやらせて拷問や殺人をやらせている分、やってることの残虐さのタガが外れている。ナチスの方が、まだ囚人を人間扱いしてるんじゃないか。こんなところにぶち込まれるくらいなら、まだアウシュビッツにぶち込まれた方がマシだ」と思った。

次に記者たちはポル・ポト政権下で行われた残虐な犯罪の証拠の数々を目の当たりにした。
政府関係者と工場勤務者数千人を除いた都市在住者全員—病人、老人、子供も容赦なく―をプノンペンから農村部に移住させた事実。仏像の首が切り落とされている様子を写した写真、寺社や仏像が破壊された写真。回収された時計(なお、時計が読める人は殺された模様)の写真。ポル・ポトがやらかした破壊行為の証拠写真がたんまりと展示されていた。
さらに展示室を進んでいくと、A棟で目の当たりにした死体写真のおかわり!と言わんばかりに拷問の末に殺された人たちの写真——それも、顔がドアップで!——が展示されていたよ。明らかに苦悶の表情で死んでいたり、ペンチで乳首が引きちぎられていたりと、(A棟で展示されていた写真も十分拷問の末に殺されたことが十分わかる内容だったけど)A棟で展示されていた写真以上に拷問の末に殺されたことがわかるような写真だったよ。
記者自身、カンボジアに渡航するまでは「これは痛かっただろうな、辛かっただろうな」というようなことを想像する以外はほとんど何も感じずに、原爆で大火傷を負った人々の写真や、当時の週刊誌が報道していた、仲間から顔の原型を留めないほどのリンチを受けた末に亡くなった山岳ベース事件の犠牲者の死体写真のような残虐な写真を見たり、女子高生コンクリート詰め殺人事件や北九州監禁殺人事件のように、犯人が行った所業の残虐さで悪名高い殺人事件の判決文やら本やらを読んだりするタイプの人間だったから、グロ耐性に関しては人並み以上はあると自負していたけど、ここで見た死体写真と最後の展示室にあった展示内容(後述)を見た時は吐き気を催したし、見終わった後は気分が悪くなった。多分、ただ写真や本を通じて残虐な内容を見た「だけ」じゃなくて、「写真に写されていたような残虐な所業が実際に行われていた場所で」「本当に行われていた」犯罪の証拠を目の当たりにして、霊感のようなものを感じたからだと思う。いずれにしても、グロ耐性という理屈を超えた何かを感じ取ったからそうなったのだと思う。
ちなみに、その顔ドアップの死体写真、撮ったのはA棟で拷問死した死体を発見したベトナム軍じゃなくて、その拷問を実行したこども看守たちらしいよ。
大事なことだから2回書くけど、その顔ドアップの死体写真、撮ったのはベトナム軍じゃなくて、その拷問を実行したこども看守たちらしいよ。「自分たちから虐殺の証拠を残してくれてありがとう」と言うべきなのか、それとも、「えげつない殺し方をしたうえに自分からその証拠を残してたの!?倒錯の世界じゃん!マジキチ!サイテー!気持ち悪っ!」と言うべきなのか……。

さて、これから最後の展示室で展示されていたものについて取り上げるというのに、最後の展示室で展示されていたものを取り上げる前の時点で、既にお腹一杯になるくらい残虐な虐殺内容のフルコースだった。
でも、これらの展示内容も、最後の展示室で展示されていたものに比べたら、まだまだ「前座」としか言いようがなかった。
「本当に恐ろしかった」というか、記者にとって強烈な印象—ほとんどトラウマといってもいい―を植え付けられた展示内容は、最後の展示室にこそあったのだから。

最後の展示室で見たもの

記者が最後の展示室に入っていきなり目にしたものは、見渡す限りの骸骨、骸骨、骸骨!
たくさんの遺骨が戸棚いっぱいに入れられていた!

でも、「銃で頭を撃ち抜かれた」「棒で頭をかち割られた」というように、明らかに死因がわかる遺骨だけは個別にガラスケースに入れられて展示されていた。
しかも、これらの遺骨がぐるりと記者たちの周りを囲むように展示されていたものだから、記者は犠牲者たちの視線(と、霊感のようなもの)を一身に感じ取った。

「犠牲者たちが私たちを見てる!
犠牲者たちが私に『このことを2度と繰り返すな』と叫んでる!
犠牲者たちが『自分の身に起こったことを伝えてくれなければ、死んでも死にきれない』と訴えてる!
私たちが同じ過ちを繰り返さないように来る人来る人を監視してる!」

……と、当時の私は本気で感じ取った。
そのためか、記者はカンボジアから出国し、日本に帰国してからも、しばらくの間は「ここで起こったことを誰かに伝えなければ、ポル・ポト政権下で殺された犠牲者たちに呪われるのではないか」という強迫観念じみた考えに捉われるようになってしまった。
これだけでも十分強烈な印象に残ったのだが、最後に記者たちはそれ以上に強烈なものを目の当たりにするのだった。

それは……犠牲者の遺骨で作られたカンボジア地図(の写真)だった!

ポル・ポト政権の犠牲者の頭蓋骨でカンボジア国内を形作り、
頭蓋骨以外の部位の骨でカンボジア国内の州を区切り、
カンボジア国内を流れる河川は血の色の赤で表現
されたものだった……。

この地図を見た時、私は鈍器で頭を殴られたような衝撃を受け、展示内容の残虐さに吐き気を催しそうになりながらも何とか持ちこたえていた何かが弾け飛んだように、一気に気分が悪くなり、吐き気を催した。
この地図を見た時、記者は吐き気を催しながらも「ポル・ポト政権がやらかしたことのやばさを表現するにしても、死体をおもちゃにしているような悪趣味な内容だ。完っ全に倒錯の世界やん……」と思った。
初めてこれを見た時は「正気の精神状態の人が作れるものじゃない。ポル・ポト政権下で行われていた苛烈な虐殺のせいで精神に異常をきたした人がやったのではないか」と思っていたが、これを作ったのはベトナム人らしい。まぁ、常識的に考えれば、自分の家族や友人の骨がその中にあるかもしれないのに、その遺骨で地図を作るっていう罰当たりかつ倒錯しきったことを当事者の人間がやるわけないんだけれども……。

慰霊塔

こうして、記者たちは全ての展示を見終え、トゥール・スレン虐殺博物館を後にしたのだが、その時、何も口にする気になれないままに空を見上げると、こんな惨劇が起こっていたとは思えないくらい空が青かったことだけが印象に残った。

DC-Cam

渡航6日目。
記者一行は特別にDC-Cam(カンボジアの公文書館)に行った。
職員の人たちによると、どうやら記者たちはDC-Camを初めて訪れた日本人大学生らしく、職員から熱烈な歓迎を受けた。
DC-Camに入って早々、記者たちは記念品としてカンボジア王国の王妃様がお書きになった日記(英訳版)を贈呈された。
(更に、ポル・ポト政権絡みのデータまでタダでコピーしたものを頂いた。この場を借りてお礼を申し上げたい。)

記者たちはウォーミングアップとしてシハヌーク殿下や王妃様がお撮りになった写真(中にはシハヌーク殿下の息子の写真もあった。のちに殿下の息子がポル・ポト政権を崇拝し、父のシハヌーク殿下を軽蔑するようになったということを文献で読んで知ってから当時のことを思い出すと、自分の息子にそのような眼差しを向けられるようになってしまった殿下の気持ちを考えると胸が痛くなった)を見てから、DC-Camの中に入っていくと、DC-Camの職員の口から
DC-Camがどうやってポル・ポト政権時代に行われていた虐殺のことを記録し、後世に伝えていこうとしているのかについて説明された。
具体的にどのようなことをしているのかというと、

・ポル・ポト政権が行った虐殺の証拠をパソコンを通じて5つの場所に残す
(各州で起こったことを、5つの州をメインで残しているらしい)

・ポル・ポト政権下で生き残った人たち1人1人に面談を行う
(その時の内容をテープに録音、今はそのテープをMP3化している)

・写真、資料、証言、ビデオ、映画を保存
(部屋の中の棚の天井から床まで、びっしりとテープやDVDが入っていた!)

・DC-Camが所有している資料をカンボジア特別法廷(※ポル・ポト政権時代に行われていた犯罪を裁くための裁判)に証拠として提出
実際に証拠として採用もされている

・カンボジア特別法廷の傍聴ツアーの開催

・ポル・ポト政権時代に行われてきた虐殺を伝えるための書籍の出版
(ちなみに社会や道徳の授業で教えられるらしい)

この時、DC-Camの職員からポル・ポト政権の悪行を後世に伝えていくことの意義について
「(ポル・ポト政権当時のことは)歴史として残さなければならない。
そうしないと、また同じことが繰り返されてしまうから」

という話を聞いた。

この話を聞いた時、記者は「高校生の頃、歴史を学ぶ意義は?という質問に『同じことを繰り返さないため』って答えていたけど、当時はそのことをわかったつもりになっていただけで、心から理解していなかっただけだった」と痛感した。いや、嫌でも痛感させられた。
実際にトゥール・スレン虐殺博物館を訪れ、虐殺の証拠の数々を見てきたことを通じて、「こんなアタオカとしか言いようのない出来事を、二度と繰り返してはいけないし、二度と繰り返さないために後世まで語り伝えていくべきだ」と心底まで思い知らされたからだ。
そんな惨劇が起きた当事国の人たちの言葉だからこそ、この言葉が持つ意味は重いと思ったし。

他カンボジアの思い出

・カンボジアで通算4回お腹を下した。
平時でもアイスとかお寿司とか食べたりするとお腹を下すので多分もともと胃腸が弱い体質(ちなみに環境が変化する節目を迎えるたびに体調を崩してきたので環境の変化にも弱い。今回は現地最安値のポテチどころか、そこそこお高いお店の料理を食べてもお腹を下したので、環境の変化に弱いのは間違いない)。
食あたり対策として市販のスト○パを持参したのだが、市販薬は全く効かなかった。
(読者諸君は、海外に行く時は前もって食あたりに効く薬をちゃんと調べてから薬を購入しようね!)
現地で最安値のポテチを買って食べたらお腹を壊した時、安価でおいしく安全なご飯が食べられる日本に生まれたありがたみがわかった。

フェリーの上から見た景色

・DC-Camに行った後、その時に付いていた通訳さんの提案で、首都から離れたカンボジアの街並みを見てみたら?と言われ、フェリーやトゥクトゥクに乗ったんだけど、フェリーに乗る時に、物乞いの子供を見たよ。
可哀想だけど、こういう時は物乞いの子供にお金や物をあげたりしちゃいけないと思う。
スリを生業とする大人から、子供を使って気を引いた隙にお金をスられるっていう可能性も考えられるし、何よりも仮に自分たちが物乞いの子供にお金や物をあげたとして、短期的には飢えをしのげてよかったとしても、長い目で見たら物乞いでしかお金や物を稼ぐ手段を知らずに育ってしまって、根本的な問題解決にならないから。少なくとも私は、そういう境遇の子供が教育を受けて、将来の職業選択の選択肢を広げられるようにすることで、貧困の負のスパイラルを止めることができるようにするために、開発途上国で教育支援をする団体があると思ってるので)

その時、記者は
「まともに教育も受けられないで、こうやって物乞いをすることしか知らないで育って、この子供たちは大人になったらどうするんだろう。
子供のうちは『かわいそう』って同情してもらえてお金や食べ物をもらえたとしても、歳食っておっさんになったら物乞いをしても、同情すらしてもらえなくなるじゃん。そうなったら、どうやって食べていくんだろうね。
こういう境遇の子供を減らすために、子供の未来の選択肢を増やすために教育があって……そして、こういう境遇の子供が教育を受けられるように、開発途上国で教育支援を行う団体があるんじゃないか」
と思った。

・スラム街にも行った。結婚式やってた。貴重な光景なんだってさ。
スラム街で生活してる人とも交流の機会があったけど、記者が思っているよりも遥かに普通の生活を営んでた。

これが有名なアンコールワット

・しっかり観光もしたぞ!なお、ツアー中に腹を下したためツアーは途中離脱した模様。

感想


・ポル・ポト政権について本で読んだり動画を見たりするのと、実際に現地に行って虐殺の跡を見るのとでは全然違った。
霊感みたいな何かを感じたよ。グロ耐性の理屈を超えている。

・歴史を学ぶことの意義について考えさせられる良い機会になった。
実際に現地に行って虐殺の証拠をこの目で見たからこそ、高校時代の自分は歴史を学ぶことの意義についてわかっているつもりになっていただけだったと痛感させられた。

高校世界史でポル・ポト政権の悪業をきちんと教えた方がいいのでは?
教科書は現代史をやる前に時間切れになるし、大して受験でも出題されないからって戦後の歴史のことは端折られがちだけど、ポル・ポト政権の悪業は高校世界史できちんと教えるべきだと思う。
知識人を虐殺対象に上げて、その国の文化、教育、インフラ、そして未来を破壊し尽くすという、アタオカにも程があるとしか言いようがない過ちを二度と繰り返さないためにも。だって歴史って、同じ過ちを二度と繰り返さないために学ぶものなんだし。
それに、トゥール・スレン虐殺博物館もアウシュビッツや原爆ドームと並んで負の遺産として登録されているんだし。
そうそう、記者が北の修羅の国・旭川の某自称進学校に通っていた頃、高校2年の時の担任から社会科の受験科目は世界史じゃなくて日本史で受験することを勧められていたんだけど、記者は「自分は世界史が好き。受験するのは自分なんだから、どうせ勉強しなきゃならないのなら、自分の好きな科目で受験したい」と思って意固地に世界史を選択したわけ。
でも高校3年の時の世界史Bのセンコー、世界史なのに南京大虐殺?とかは百人斬りまで持ち出してプリントまで配って教えこみやがったくせして(『やるな』とは言わないから、せめてそういうのは日本史でやれ)、ホロコーストは流石にそれなりに力を入れて教えてたけど、そこまで熱心に教えこまなかったんだよなあ(むしろこっちをちゃんと教えろよ!何のための世界史だよ!)、まして戦後に虐殺が行われていたポル・ポトは……とゆう感じだった。
今だから言えるけど、そのセンコー、本物の独裁者に対する危機を感じ取る能力が欠落しているとしか思えない
ポル・ポトみたいなのが政権についたら、自分たち教師が真っ先に殺される対象になるのにね!
ちなみにこのセンコーに関しては、仏教だかチベット仏教だかの内容の授業の時に(記者が高校3年の時のクラスTシャツの色が紫だったことで『紫は仏教の世界では一番高貴な色で〜』って話をしていたことから、多分学校祭明けの7月頃だと思う)、麻原彰晃の書いた本を持ってきたり、麻原がチベット仏教の人から持ち上げられていた話をしたり、麻原彰晃のことを「死刑が執行された」じゃなくて「殺された」って教え方していたっていう、人によっては「お?お?お前、オウム真理教を賛美してるのか?日本史に名を残すレベルのテロリストやぞ?」と受け取られてもおかしくないような授業をやっていたというなかなかやばいエピソードもある。
※ここまでボロクソに書いてますが、このセンコーの世界史の授業は、この2つのエピソードを除けば普通に面白い授業でした。実際の資料や各国の文物を通じて分かりやすく講義してたので

卒業した今、思うこと



ぶっちゃけ、もう卒業した今だから……
J研で活動しているだけでは絶対に会えないような層(いわゆる、お前らが『意識高い系(笑)』と冷笑のたいしょうにするような人達)の人たちと3年間接する機会があったからこそ言えることがある。

「意識高い系になるかどうかすら金と親が子供をどんな環境に置くか次第」
だと。

記者が所属したゼミの面々の中には、
高校時代に某国にスタディツアーに行ったとか、
子供の頃、親が海外に赴任してて貧しい暮らしをしている人を見たとか、
悉く経済的に裕福な家庭か、親の学歴が大卒しか就けないような仕事に就いてるんだろうなということが察せられるような経験をしている人たちが多く目につく。
(しかもこのゼミでご飯を食べに行くと、サークルでご飯を食べに行った時よりも値段が高いところが多い)
なので、同じゼミの面々の話を聞いていると、「意識高い系(笑)」と冷笑の対象になるような人間になるかどうかすら金次第であり、親がどんな環境に子供を置くか次第だと感じた。
卒業した今だから言えることだけど、記者は、FLPでのゼミ活動を通じて、学業面で色んな意味で他では得られない刺激を得ることができた反面、J研はおろか他の普通のサークルでも活動しているだけでは滅多に出会えないだろう階層の人種との出会いを通じて、親ガチャと環境ガチャの重要性を感じた。
就職活動で経験重視採用なんてやったら、ますます裕福な家庭の子か、高学歴な親を持つ子の家庭が有利になるのではないかと思ったね。
だって、「意識高い系(笑)」と冷笑の対象になる層の人達、経済的に裕福か、親の学歴が大卒しか就けないような仕事に就いていたり、子供がそういうことに興味を持つような環境を整えるような教育熱心なご家庭だということが伺えるような人達が多かったもの……。親ガチャと環境ガチャの重要性を嫌でも感じるよね。

(同時に、先進国の日本ですら親ガチャ・環境ガチャ次第でこんなにも違うのか!と驚くような経験をしたのだから、まして格差が日本以上に激しい開発途上国では親ガチャ・環境ガチャが外れたら……と思うと、親ガチャ・環境ガチャによる格差を縮めるために教育の支援をすることの重要性を思い知った。)


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