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ボウフラ 〜後編〜

 店の照明が少し落ちた。午後八時を過ぎた合図。

 テーブル席のカミキリムシ三人組に呼ばれ、「ちょっと失礼します」と、ママがその場を静かに離れる。ママがいなくなってしまったカウンターは、座っている客が主役。


 「どうして捨ててしまったのですか?」

 突然の声に驚いた江梨子は、ぼやっと横を向く。どうやら同じカウンター席に座っている亜紗美の姿にやっと気付いたらしい。スプーンを置いて亜紗美の方に向き直った。

 「まぁ、すみません。勝手に一人で、盛り上がっちゃって」

 「いえいえ。盗み聞きしたような感じになってしまって、こちらこそすみません」

 私もママにおごってもらったくちです。亜紗美はカップを持ち上げて苦笑いした。

 「気付いちゃったんですよぉ」

 カウンターを弾いていた江梨子の指がカップにあたり、カチンと音をたてる。

 ここまでくると、話し相手は誰でもいい。とにかく最後まで吐き出してしまいたい、というのが本音だろう。薄暗い照明も、コルトレーンの曲も。そんな雰囲気をつくりだしている。

 「実はあたし、彼専属の、都合の良い女なんですぅ」

 江梨子は様子を伺うような悪戯な目付きで亜紗美を見た。

 押し掛けてきた紫のストールの女は愛人。他に奥様もいるから、彼のまわりには女が三人……ううん、案外、他にもいるかもしれないわねぇ。

 「そうなんですか」

 表情を変えずに軽く返事をする亜紗美をみて、江梨子はつまらなそうにカップの方に椅子を回しながら「ふうーん」と、小刻みに頭を揺らした。

 「愛人に使用料なんて、払う必要があったんですか?」

 江梨子は『待ってました』とばかりに、カウンターの下でぶらぶらさせていた組足をとき、身を乗り出した。

 「その時は、本気で彼を『いただく』気でいたんですぅ。馬鹿みたいでしょー」

 『まったく、狂ってました。ガキみたいにぃ』笑い声と一緒に、ピンクゴールドでネイルアートされた爪が口元で揺れる。

 「んで、聞いてくださいよぉ!」

 化粧室から出てきたモンキチョウが、江梨子の声に驚いて、羽を立てたまま通り過ぎる。

 「気が付いたら、あいつの家の前に立っていたんですよ!」

 そこに、あいつが奥さんと帰ってきて。その奥さんっていうのが、かなり年上の、地味でむっさいおばはんでぇ。あいつも、いつもとは違う、だっさいスウェットの上下と、つっかけ。目があった時の、ちょっと照れるような、バツの悪そうな笑い。

 『もう、もう、もう!超絶ふつーのおじさん誕生って感じ。さいあくぅっ!』江梨子の手元で丸められたおしぼりが勢いよく弾む。

 絶対マザコン。この奥さんからは離れられない。そう悟りましたぁ!きっとですねぇ。あいつにとっては、お金とか、美貌とか、能力なんて、どうでもいいんですよぉ。だから、あいつを独り占めだなんて、一生無理。


 「なんかねぇ。そう思ったら、足にジクッてする痛みを感じて。足もと見たら、もう、ビックリ!あたし、裸足だったんですよぉ。おまけに、力を入れて握り締めていた手を緩めたら、中から五センチくらいの石がポロッて落ちて。もう、もう、ホント、ビックリ!」

 江梨子は突然、酔っていたことを思い出したかのようにケラケラと笑い出した。

 「顔を見ると、殺したくなっちゃう。だから、心の中のあいつも、完全に捨てちゃったぁ」

 カップについたラメ入りの口紅のあとが、血の跡のように赤黒く光っている。

 「苦しいだけじゃん。ばかばかしい」

 もう、二年も前の話しなんですけどねぇ。江梨子は、ブツブツと口の中で言葉を並べながら、目をうっすらと閉じる。

 どうでもいいことに一生懸命だった時のことって、懐かしいと思えません?全力を尽くした後の爽快感と、その後の寂しさ。脱力感。

 「今となれば、こんな歳になって、そんな気持ちになれたなんて。なんか、なんか『ありがとう』って感じかなぁ」


 カラーン、カラカラカラ……

 オオミズアオや、ヒラタクワガタの羽を背負った若者たちが、店に入ってくる。亜紗美は、江梨子の次の言葉を待ったが、頬杖をついて薄笑いしている江梨子は、もう話したいことは全部吐き出してしまったように見えた。

 「あら、寝かかっています?大丈夫かしら」

 ママが皿いっぱいのクラブ・サンドウィッチを運びながら、江梨子を横目に通り過ぎる。パンとマスタードの匂いが、かろうじて人間であることを思い出させてくれる。

 「江梨子さん。風邪ひきますよ」

 江梨子の背中から、無理して押し込んでいた黒光りした大きな羽がポロリと落ちる。残ったのは二本の長い傷。


 「ここでこうしていると、昔に戻ったような気がしますね」

 そう、あの頃は、ここでコーヒーを飲みながらいろいろなことを語った。辛いことばかりだったが、なぜか輝いていたあの日々。口にした苦いコーヒーの温もりと共に、背中の傷の横辺りから、忘れかけていた熱いものがふつふつと込み上げてくる。
 
 ママは再びカウンターの向こう側に落ち着くと、ゆったりと微笑みながら言った。

 「時々、懐かしいお客様が、大事な忘れ物を取りにいらっしゃるのですよ」

 ママが差し出した一枚のコースター。サムタイムの文字の裏に「絶対に諦めない」という、力強い文字。亜紗美が数年前に書いたもの。

 蝶になれなくたっていいじゃないか。格好良くなくていい。空を飛べれば。このままボウフラでいるよりはずっとマシ。


 カラカラカラーン……

 甘い香りが残っているコートを羽織ながら、空に向かって大きく深呼吸。

 ――諦めようと思っているんです――

 本当はそれを言いに来たはずだった。


 ビルの立ち並ぶ道が見事にライトアップされていて、違う街に来ているような錯覚に陥る。

 「来たときと、全然違うな」

 ショー・ウィンドウに映る薄い二枚の羽が生えた自分の姿を見て「本当に違う」

 そう思った。

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