見出し画像

ボウフラ 〜前編〜

 記憶を辿りながら、入り口の戸を静かにあける。香ばしいような甘い香りが、懐かしさと共に身体中をゆったり包み込んでくる。

 「いらっしゃいませ。あら」

 亜紗美さんじゃないですか。と、奥から懐かしい顔が覗いた。

 街並みとは裏腹に、あまり変わっていない店の雰囲気にホッと胸を撫で下ろすと、亜紗美は迷わずカウンターの右から三番目に腰かけた。

 いつも座っていたこの場所。フィルターから落ちるコーヒーの音が、雨音のように響き渡る特等席。

 「ママ、変わってないですね。ちょっと安心しました」

 『あら、嬉しい』ママはお気に入りの白いコーヒーカップを取り出すと、その中に温めるためのお湯を注いだ。


 亜紗美が横浜の大学に通っていた頃、乗り換えの駅に近い、この純喫茶『ア・カペラ』に顔を出すのが習慣となっていた。

 いつも微笑んでゆったりコーヒーをたてているママの姿は高級なインテリアのように店に溶け込んでいて、それがとても優雅で神秘的で。亜紗美はこの店でコーヒーを一人で飲むことを覚えた。

 蓑のようなもので身体を覆っている青年が軽く会釈をしながら通り過ぎる。その歩調に合ったトーンとリズムで『あら、今日は早上がりですか?』と、声をかけるこの店のママ。

 年の頃は四十代前半といったところだろうか。若い頃に一度結婚して子供もいたらしいが、学生時代の元恋人にその夫と子供を殺されてしまったという。そして、その恨むべき相手は自殺。

 「どうせ殺すなら、私を殺してほしかったわ」一度きり、本当に一度きりではあったが、ママがそう背中で呟いたのを聞いたことがあった。

 その背中に浮かび上がる二本の長い傷痕。


 「向こうでの生活はどうです?慣れました?」

 ノリタケのコーヒーカップを並べているママの背中には、傷痕の横に白い大きな羽が揺れているのがぼんやりと見えて。それが過ぎた年月を物語っていた。

 実は、と言いかけた言葉がコーヒーミルの音にかき消される。

 「また戻ってきたんです。横浜に」

 ピチッと、炭火が音をたてる。

 ママは静かに頷くと、表情を変えずに「これはサービスです」と、入れたてのコーヒーを差し出した。

 亜紗美はゆっくりとそのカップに口をつける。暖かさと、苦味と、胸の痛みとが、少しずつ、少しずつ、溶かされていく。

 「どうして私は大学を中退してまで女優の道を選んだのだろうって、ずっと考えていたのですよ」

 テーブル席の三人組が、堅い羽の中から薄い羽をちらつかせながら『最近の若者は!』などと、変な盛り上がりを見せている。その騒がしさに紛れながら、亜紗美はぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎだした。

 「都会に行けば、何かが変わると思っていました。でも、結局いつも不満だらけで、なにかを追いかけていなければ落ち着かなくて」

 蝶になれるわけないのに。胸の辺りに鳥肌がたつような寒気が起こる。

 「なのに、周りからは『夢を追い続けて格好良い』みたいに言われて、優越感に浸って。ばかみたい」 

 亜紗美は飲みかけのカップを乱暴に手元に引き寄せると、波打つコーヒーの真ん中にミルクを一気に注いだ。一口飲んで、砂糖を二杯、更にカップに放り込む。

 何かを変えたい。苦しみから逃れたい。浮いたり沈んだり、ジタバタの日々。

 「それはそれで、いいのではないですか?」

 ママは目元だけ細めて白々しい笑顔をつくって見せた。

 「無茶して違う羽をつけようするより、ずっとマシですもの」

 
 ママも『見えている』、という直感はあながち狂ってはいなかったようだ。亜紗美は表情を動かすこともなく、頷きながらカップを口に運んだ。

 「私はどうして喫茶店をやっているか、わかります?」

 「人と話すのが好きだからですか?」

 ママの背中の白い羽がふわっと動く。

 「いいえ。就職に失敗したからです」


 カラカラーン、カラカラカラ……

 「ねぇ、ママ!カフェ・オ・レちょうだい!あっつい、のぉ!」

 ドアベルと同時に鳴り響いた女の甲高い声が、静寂を破る。

 クリーム色のシフォン・スカーフをヘアバンド代わりに頭に巻いた、二十代後半ぐらいのその女は、亜紗美の三つ横の席に体を放り込んできた。ほんのり、アルコールの匂いがしてくる。

 「ねぇ、あいつ、やっぱりあの女のところに戻っていったわ。ママの言う通りだったわぁ」

 女はカウンターテーブルに突っ伏して、腕と顔の隙間から力ない声を出した。

 「『プライドが高い女だから、慰謝料を手にしてあっさりと出ていくよ』って、言ってたくせにぃ」

 女は、今度は早口で独り言のようにつぶやき、眠そうに欠伸をした。

 ママがそっとホット・ミルクを差し出す。上には生クリームであしらった薔薇の花がふんわりと浮かんでいた。心が疲れている時には、ココアではなく、コーヒーでもなく、ほんのり甘いホット・ミルクがちょうどいい。ママはそれを知っている。

 「あたしだってねぇ。あいつがあの女と、別れることがてきないこと、なんとなく、わかっていたのよ」

 離れてると、怒りが込み上げてきて、あんなやつ、捨ててやるぅ!って思うのに、あたしも淋しい女でねぇ。カップの向こう側にぼんやりと視線をおとしながら、女はフッと笑った。

 「そしたら、体に大きな紫色のストールをまとった女が乗り込んできたのよ。名前も名乗らずに『私のこと、わかりますよね。今までの使用料払ってくださいよ』よぉ?腹立つじゃないねぇ」

 相手はオオムラサキか。亜紗美は心の中で小さく呟いた。

 あのプライドの高さを考えれば、今回の騒動も取りたててめずらしいものではない。カップの底に残った泥々の砂糖を流し込みながら、ママに『おかわり』の合図を送る。

 「『おいくらなんですか?』って聞いたらぁ、『あなたにとっての彼の価値で決めてください』って言うからねぇ。キャバクラ時代に貯めた四百万、突き付けてやったのよぉ」

 女が振り返った時に漂ってきたイヴ・サンローラン・モン・パリの香りに、ふと五感がリンクする。そっと女の方を見ると、黒光りした大きな羽が女の背中に立っているのがうっすらと見えた。たぶん、カラスアゲハ、の羽。

 「それで、江梨子さんはどうなさったのですか?」

 『あたし?』その、江梨子という女はカップを揺らす手を止めた。

 「あたしはさぁ、彼があたしを選んで、向こうの女との同棲を、解消したときに……」

 彼を捨ててやったんだわ。

 江梨子はホット・ミルクに浮かんでいた白い薔薇の花を、スプーンで押し込んだ。


〜後編へ続く〜

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?