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大江健三郎『芽むしり仔撃ち』と「消えた少女」

 『美しいアナベル・リイ』を論じた際に、ついでに読んでみたので『芽むしり仔撃ち』も論じてみようと思う。

 文藝評論家の福田和也が『作家の値うち』(飛鳥新社 2000.4.19)で『芽むしり仔撃ち』に62点をつけて以下のように記している。

 ピエール・ガスカール、ジャン・ポール・サルトルなどの影響を受けながら、清新なリリスズムと残酷さをたたえていた初期大江健三郎の魅力を味わうことができる。本作をもって大江の最高傑作とする意見も少なくない。(p.136-p.137)

 福田和也が指摘している通りに評価しているのが文藝評論家の小川榮太郎で、彼は上梓した『作家の値うち』(飛鳥新社 2021.12.22)で90点をつけて以下のように記している。

 大戦末期、山中に集団疎開する感化院の少年たちの物語。簡勁かんけいでありながら豊饒ほうじょう、大江の持つ叙情性がここでは神話の次元にまで高められている。体臭、欲動、感情が波動のように文体そのものによって直接喚起される。この呪縛的な文章の豊かさに酔うだけでも日本文学にかつて未聞の経験だ。大人=邪悪、子供=純粋、子供のとらわれと解放という図式的な世界理解が、ここでは物語の力として働いているが、後に大江を国家、政治、保守主義=悪、個人、市民、戦後民主主義=善という硬直したイデオロギーの旗手にしてゆくことにもなる。その意味で大江文学の一つの頂点であると共に、硬直化の起点とも評せよう。(p.193)

 しかし発表当時は『芽むしり仔撃ち』は絶賛とはいかなかったようで、ここでは文芸評論家の江藤淳が1960年6月に発表している「大江健三郎の問題」という解説を『石原慎太郎・大江健三郎』(中公文庫 2021.5.25)から引用してみる。

 『芽むしり仔撃ち』の世界もまた、処女作以来この作家の作品を一貫して来た二重構造の世界であって、その外側には「戦争」があり、内側には疫病で封鎖された村がある。この村が、ある山村であると同時に普遍的な村であるということはいうまでもない。しかし、ここでは歴史の悪意は偶然のかたちづくる「宿命」としてではなく、村を棄てて逃げた大人達の行為の結果としてとらえられ、ここには「疲れすぎた」処女作の「僕」のかわりに、大人達の行為の「卑劣さ」を糾弾する「僕」がいる。この発見が、『芽むしり仔撃ち』を、それ以前の作品から一歩進めた佳篇とした大きな動因であった。   
 ところで、これら一連の作品に展開されているのも、やはり一種の「夢」であることにかわりはない。(p.233)

 しかし、それならばどうして『芽むしり仔撃ち』の感化院の少年達の「勇者の倫理」がしばしば、日本の現実から遊離した遠い国のお伽噺のような印象をあたえるのであろうか。イマジストは世界を見ない。が、存在するのはイメイジだけであろうか。果して世界は実在しないであろうか。この佳作を書きあげたとき、大江氏の直面した難問はこれである。(p.235)

 小川が「神話の次元にまで高められている叙情性」として称賛している大江の文体を江藤が「現実から遊離したイメイジ」として問題にしているところが興味深い。

 確かに大江が「描写」ではなく「イメージ」を書いているという意見にはそれなりの理由がある。例えば、『芽むしり仔撃ち』において主人公の弟のレオに手首を噛まれた少女が亡くなった後。

 夕暮に僕は、谷間の柔らかい土と灌木かんぼくの共同墓地へぼろにくるまれた小さなものを抱えた兵士と、彼から数メートル離れてついて行く仲間たちを見た。(p.174)

 その後、村に戻って来た村人たちが逃走した者を捜査する。

 「こいつらが埋めた死人は掘りおこして火葬をすませたが」と別の男がいった。「子供の死人はあれの他、村の女の子だけだった。山の中へでも逃げこんだのだろう」(p.194-p.195)

 実は村人たちは既に共同墓地を掘り起こしていた。

 村人たちの五人が、谷間の共同墓地で淡い日ざしを背や肩にうけ、うつむいた顔をかげらせくわをふるって働いていた。そして彼らは、僕らが貴重な球根のように丹精こめて埋葬した死者たちを掘り出し、それらを雪の消え残っている草原に並べた。僕らには、それらのどれがかつての僕らの仲間か、またどれが僕らの恐慌の最初の芽になった少女の新しい死体かわからなかった。(p.183)

 埋葬したばかりの少女の死体が分からなかったのかという疑念が湧くのだが、もしかしたら兵士が抱えていた「ぼろにくるまれた小さなもの」は少女の遺体ではなかったのかという展開を期待し、ここに来て俄然面白くなってくるのだが、何故かその後、村人たちは主人公たちに対して土蔵を焼いたり仏壇を汚したり村内を荒らしたことを糾弾するだけで、疫病に罹っているかもしれない少女の居場所を探そうとしないのは、本作が純文学として『群像』で発表されたから許されたことであって、もしも『小説現代』だったならば、伏線を回収できていなことで編集者からダメ出しをされて書き直させられただろう。だから個人的には『芽むしり仔撃ち』は23歳の大江の最初の長編小説として習作の域を出ていないように思うのである。