見出し画像

古義人vs.偽伯爵

 ポール・オースターの小説を読んでいて、似たような文章を読んだことがあると思っていたら、蓮實重彦のエッセイ(随筆?)だった。何故か蓮實が書く文章にもやたら「偶然」や「失念」などが出て来る。失念などは年相応と思うだろうが、78歳で『「ボヴァリー夫人」論』、86歳で『ジョン・フォード論』を上梓している人物に「年相応」など関係ないのである。

 ところで不思議な話なのだが、蓮實と大江健三郎との関係はあまり良好ではなかった、というか関係そのものがなかったようなのだ。以下、『笑犬楼vs.偽伯爵』(新潮社 2022.12.21)から。

 大江さんと同じ大学の同じ学部、しかも同じ学科の卒業生でありながら、二年後輩のわたくしは、大江さんとお会いしたことはほんの数回しかありません。一九八九年に読売新聞主催で、ノーベル文学賞受賞者のクロード・シモン氏を招いた討論会があり、司会と通訳をしたことがあります。そのとき、受賞以前の大江さんが日本を代表して討論に加わっておられたのですが、親しく言葉を交わす機会はありませんでした。その後、二〇〇五年のソウルでの国際文学フォーラムでご挨拶したこともありますが、きわめて限られた遭遇体験しかありません。(p.14)

 大江は完全に蓮實をガン無視したのである。この理由は明らかで蓮實が書いていないので代わりに書いておくのだが、大江の義兄の伊丹十三が1984年にデビュー作として撮った『お葬式』を蓮實が全否定したことを大江が恨んでいたことは間違いないと思う。その後、1997年に伊丹が自死したこともあって筒井と「和解」したようには大江とは関係を築けなかったのである。

 蓮實が学生時代に何故スポーツに集中していたかという理由が興味深い。当時の文学は学校の先輩の三島由紀夫を初め堀辰雄や太宰治など「病弱」ばかりが文学を牛耳っており、これでは文学に未来はないとして、蓮實は陸上競技に集中し、新宿の中学校の陸上競技大会の円盤投げで一位になったようなのだが、中学時代に書いたマルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』の感想文が学校の新聞に掲載され、それが訳者の山内義雄の目にとまり、自宅に招かれて万年筆まで貰っているというのだから驚く。
 東大教養学部学友会機関誌「学園」で、1955年に大江が「火山」で銀杏並木文学賞の第二席を獲ったのだが、翌年蓮實は「エドゥワール・デュ・コぺェ氏の行動の記録」で入賞しており、学習院大学の「フランス会」がフランス語で上演したジャン・アヌイの『アンチゴーヌ』でクレオン役を演じ、東大時代ではモリエールの『人間嫌い』をフランス語で上演した際にフィラント役を演じたというのだからこれにも驚かされた。

 最後に本書で最も印象に残った文章を引用しておきたい。蓮實の文章である。

 文学に携わるものでさえ、生真面目さと不真面目さの処理がいたって苦手のようです。この愚かな疫病の蔓延時においてさえ、誰もが知らぬ間に生真面目さを気どり、どんな事態に対してもひたすら生真面目に向かいあおうとしているかにみえる。それが不快でならないので、これまでその疫病の名前を ー マスクという間接的な事態への言及を除けば ー あえて口にすることを自分に禁じておりました。すでに公表されている第二便でも目ざとくご指摘のように、わたくしはこの疫病を名指すことを、これまで一貫して避けてまいりました。それは、そう名指した瞬間に、書き手の姿勢が不必要に生真面目さを露呈させてしまうように思えてならなかったからなのです。(p.161-p162)