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大量消費文明で進行する解釈の安易さ

 2023年10月8日付の毎日新聞朝刊の「時代の風」というコラムにおいて日本芸術文化振興会理事長の長谷川眞理子氏が「舞楽『二の舞』と大量消費文明」というタイトルで寄稿している。以下、舞楽に関する文章を長くなるが引用してみる。

 それに続いて、国立劇場で舞楽の公演を鑑賞した。宮内庁式部職楽部による「安摩あま」「二の舞」「新鳥蘇しんとりそ」が演じられたのだが、私はこの「二の舞」というものを初めてみて、とても驚いた。
 「安摩」は、2人で踊る祭事のための舞楽なのだが、「二の舞」は、この「安摩」を踊ろうとしてうまく踊れない2人をやゆした踊りなのである。「二の舞を踏む」という言い回しがあるが、まさに、その語源となった舞があるということを知って驚いた。
 「二の舞」に出てくるのは年老いた男と女で、ともによぼよぼして手足が震えている。この2人が「安摩」のきびきびした動作をまねようとするのだが、どうにもならない。これは、能に対する狂言のように、格式ばったものと対比し、おかしみを出して人を笑わせる趣向なのだろう。
 昔は「二の舞」の老人2人が、よぼよぼ、ふらふらして「安摩」の舞人の美しい動作を再現できないのを見て、観客は笑ったに違いない。しかし、今では、それを見て笑う人はいない。私と一緒にあの公演を見ていた観客は、誰も笑わなかった。あの動作は、老人や、ある種の障害のある人たちのからだの動きをほうふつとさせる。現代の私たちは、それを見てケラケラと笑うことなどできないのだ。今は、もはや絶対にそういう時代ではない。
 そこで、伝統芸能の中で何を残し、何は変えていくべきなのか、という問題にぶつかるのだが、今回はそれとは別のことを論じたい。(後略)

 「別のこと」に興味のある方は是非毎日新聞を読んでもらいたい。ここでは「伝統芸能の中で何を残し、何は変えていくべきなのか、という問題」を取り上げたいのである。

 筆者は雅楽に関して決して詳しいわけではなく、せいぜい奈良時代に朝鮮や中国から伝わって来た音楽や舞であるという程度の知識しかない。それに長谷川氏の言う通りに「二の舞」の内容は「格式ばったものと対比し、おかしみを出して人を笑わせる趣向」で演じられ、その役割は「老人や、ある種の障害のある人たち」に託されているのだと思う。確かにもはや「笑えない話」になっているとも思う。

 しかし奈良時代から令和までおよそ1200年受け継がれている物語はそれだけの間風雪に耐え抜いてきた物語であるということを忘れてはならないとも思う。例えば、よぼよぼ、ふらふらしながらも「安摩」の舞人の美しい動作の再現を試みようと努力する「弱者」の物語と解釈できなくもないのである。だからその時代の安易な解釈によって簡単に「伝統芸能の中で何を残し、何は変えていくべきなのか、という問題」として扱って欲しくないのである。長谷川氏の肩書が気になり、もしかすると大阪における現在の人形浄瑠璃文楽の惨状の二の舞を演じることにならないかと心配になって記した次第である。