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公正世界信頼

ちょっとコメント欄に書くには長くなりそうだったので独立記事で。
以下の記事へのコメントになります。

簡単にまとめると、「公正世界仮説」という考え方があって、「正しいことや努力をしていれば必ずいつか報われる」という仮説。それに対して「それは綺麗事に過ぎず、その綺麗事を信じて努力して裏切られることに多くの人がうんざりしているのではないか」という反論があり、「言っている事、気持ちはわかるがそういう考えでいいのだろうか」というお悩みの話。

私も斜に構える方なので「綺麗事だ」と考える人に傾くんですが、そうはいっても皆が皆「綺麗事だ、信じるな」となると社会が成り立たないという白饅頭氏の意見ももっともで。最終的には「綺麗事だ vs 信じることも必要だ」という意見の綱引きで成り立つ話だと考えるんですよ。まあここまではコメント欄にも書いた話なんですが…

聖書には「神に祈る時はその姿を他者に見られないようにしなさい(大意)」という戒めがあったり、「お天道様は見ている」という「良い事も悪い事も天は知っている」という戒めが日本には昔からあったわけで。「天網恢恢疎にして漏らさず」ですね。どちらも「人の目は物事を正しく見極めることが出来ないかもしれないが、神/天/道理はそれを正確に見極めて応える」という、まさに「公正世界仮説」そのものの考え方があったわけで。人間の考えることなんぞ昔も今も変わらない、ということなんでしょう。ただここで注意するべきなのは「公正さを保つ/担保するのは、けして人間ではない」という点で。判官贔屓なんて言葉もありますが、人間である以上どれだけ公正さを保とうと努力しても限界がある。その限界が「不公正」として現れるのではないか。公正世界仮説は、ある種の信仰告白に近しいものかもしれません。

信仰を持っている人間としてはこの仮説はすんなりと腑に落ちるんですが、無信仰を標榜している人にとっては「なんだ、やっぱり公正世界仮説なんて気休めに過ぎないじゃないか」と考えるかもしれませんね。たぶん気休めと捉えるほうが腑に落ちるのではないか。ただ、それでは困るという話も理解は出来るかと。

どう考えたらいいんでしょうか…

「体感治安」という言葉があります。読んで字のごとく、感覚的に捉えられる治安の善し悪しで。残念ながらここ数年は刑法犯も増加傾向にあるので体感治安の悪化もまったくの無根拠ではないのですが、とは言え、前世紀から比べると大きく減少傾向にあり、本来なら体感治安もそれに合わせて向上しているはず。でも、実際はそうでもないんですよね。環境が良くなったら、昔ならより大きな事件の影に隠れていた細かい諸々が見えるようになって、それが体感治安を悪化させてしまった。

住民の体感治安に影響を与える 要因に基づいた防犯政策の立案

公正世界仮説を疑わしいものにしている要因も、実はこれと同じような力学が働いているのではないかと考えるのですよ。社会がより公正になり、努力が色々と認められるようになったからこそ、漸進的にしか変われない事柄や努力の水準が高く求められるものを認めることが難しくなったのではないか。

みんなが努力して結果を出していく社会では、だんだんと努力することのハードルが上がっていくわけです。そりゃそうですよね。皆が一努力している世界で認められるためには二努力必要で。逆に言えば皆が二努力しようと務める社会で一努力するのが精一杯の人間は「努力していない」と見做される。こういう残酷なメカニズムが働いているのではないか。一努力二度力くらいなら超えられるハードルに見えても、それが百や千ならどうか。

努力したからといってそう簡単には変われないものは世の中たくさんあるわけで。中小零細がトヨタ並の売上が無いのは努力不足だからでしょうか。個人経営の衣料品店がユニクロに大きく売上で劣るのは努力不足が原因か。
まあ、トヨタもファーストリテイリングも激烈な競争に身を置いているからこその売上ではあるわけですが、誰もが同じことをできるわけではないということも、結果が伴うわけではないということも容易に理解できる話ではないか。「努力していないのではないか?」と軽々に口にする人は、そこが見えていないんじゃないのか。

世の中には「しがらみ」というものもあって、少なくない人達がそれを頼りに生きている場合、容易なことではそれを取り除くことはできないわけです。一面的には不公正に見えても、それを取り除いて「より競争的な場に皆を置く」という措置を取ると力の強い者の総取りになってしまう場合も多い。不公正が斬新的にしか変われない、という話にはそういう面もある。もちろん、本当に不公正としか言いようが無い場合もあるわけですが。でも良し悪しはともかくとして SNSが普及した2024年現在、誰一人として咎める人のいない不公正が放置されるということは、なかなか考えにくいんじゃないでしょうか。

努力が認められるからこそより多くの努力が求められる。公正な社会だからこそ僅かに残らざるを得ない不公正が目立つ。この仮定が正しいとすれば、これほど皮肉なことはありません。より良い社会を目指すことが、即ち、より社会の中に「悪を見出す」ことに繋がるわけですから。

どうしたらいいのか。

こういう考え方はどうでしょう。「たとえ努力が足りないように見えたとしても、その人は自分が知らないところで十分な努力をしている。不公正があったとしても、それを補う公正さが自分の知らない所で行われている」と。

あなたは公正であり努力をしている人かもしれません。素晴らしい、褒め称えられるべきです。でも24時間365日その状態を維持し続けているのでしょうか。違いますよね? 僅かながら「悪徳」に身を置くこともあるはずです。人間です。常に清廉潔白では息が詰まってしまう。ただ、非情に不幸なことに、その「たまたま例外な行動をした」という時に限って誰かの目に触れたなら。その人物があなたのことを知らなかったなら。どうでしょう。

私達が日々目にする「不公正/努力していない姿」というものも実はこれではないか。たまたま運悪く、その人物の悪い面を見てしまった。実はそれだけのことに過ぎなかったんじゃないか、とは考えられないか。

世の中には努力もしていないのに美味しい思いをしているように見える人がいるかもしれない。不公正な状態でぬくぬくと生きているように見える人がいるかもしれない。でもあなたはその人のことをどれだけ知っているのでしょう。見ているのでしょうか。他の顔は無いのか。ストーカーのように常に監視してるのか。違うんじゃないでしょうか。

まあ、こういう考え方も気休めと言えば気休めかもしれません。世の中には確かに不公正や不平等があって、だから昔から多くの人がその解消に努力してきたわけですから。とは言え、おそらくそれは「終わりなき戦い」ではないか、と思います。人間社会の宿痾ですから。だからといってそれがけして無駄ではなかったことは、現代社会がその姿を持って証明もしている。こういう考え方ですませることは難しいでしょうかねえ。

私達はもっと他者の公正さを信頼するべきではないか、と思います。それこそがタイトルに書いた「公正世界信頼」ということで。


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