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読書録/キリシタン官兵衛

「キリシタン官兵衛(上)(下)」
雑賀信行著 雑賀編集工房

 2014年のNHK大河ドラマは、豊臣秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛の人生を描く「軍師官兵衛」。途中からドラマを見始めたが、薄い内容に辟易していて、ふとネットで紹介されていたこの本を読んでみたくなった。

 黒田官兵衛は、播磨国の小寺政職に仕える黒田職隆の嫡男として生まれる。14歳で母を亡くすと、寂しさを紛らわせるため文学にのめり込んだという。小寺政職の近習として仕えていたが、頭角を現した織田信長、ついで豊臣秀吉の家臣となり、九州平定の功績が認められ、豊前国12万石を与えられ、中津城を築城する。高山右近や蒲生氏郷のすすめでキリスト教の洗礼を受け、キリシタンとなった。洗礼名はシメオン。中津城が完成した後、家督を長男の長政にゆずり、秀吉の側近となって軍師として活躍した。

 官兵衛はキリシタン大名の一人といわれるが、秀吉がバテレン追放令(※バテレンとはポルトガル語で「神父」を意味するパードレから転じた言葉で、キリスト教の司祭や宣教師のこと)を出したとき、いち早くキリスト教を棄てた(棄教という)というのが一般的な説である。その後「如水(じょすい)」と名乗っているのは、出家したからだということのようだ。大河ドラマでは、棄教したかどうかは描かれなかったが、剃髪していかにも出家したかのように描かれていた。通説通りといってよいだろう。

 だが、それは本当なのだろうか。

 よく言われていることだが、私たちのよく知っている戦国時代の歴史というのは、最終的に勝者となった徳川幕府の意向に添った、徳川幕府の正統性を喧伝するためのものである。関ヶ原の戦いで西軍を指揮し敗者となった石田三成が、常に悪役として描かれるのはそういった事情による。

 本書では、そのほかにも重要な指摘がなされている。それは、徳川幕府がキリスト教を禁教とし、激しい迫害を加えたことによる。宗門改という制度によって民衆の宗教を監視し、キリシタンは処刑、棄教した者はキリシタン類族として男性は6代、女性は3代先まで監視下に置かれた。こうしたことから、江戸時代の人々は、自分自身がキリシタンでなくても、先祖がそうであったことを隠し通す必要があった。そのため、官兵衛に関する史料も、キリシタンであったことを明らかにするものは破棄されたり書き換えられたりしている、というのである。

 しかし、この時代の記録として残されているのは、日本国内のものだけではない。当時日本を訪れたルイス・フロイスをはじめとする
イエズス会の宣教師が、本国への報告、また様々な書簡や記録を残し、そこに、いわば後世の「検閲」を受けない、同時代をリアルに生きた人々の目を通して見た戦国の生々しい人々の生き様、そしてその中で救いを求めてキリストにすがり、ならった人々の姿を見ることができるのである。

 本書は、そうした外国人宣教師の記録から、当時を生きたキリシタン大名たち、そして一般の民衆たちがキリスト教に引きつけられ、信仰の道へと入っていった理由やその生き様、そしてとりわけ黒田官兵衛の信仰がどのようなものであったか、をひもとき、後世になって隠されてしまったかもしれない実像へと迫っていくものである、

 上巻では、さまざまな小説家が描いた官兵衛の姿の中にある「誤解」を指摘しながら、官兵衛の生きた時代が本当はどういう時代だったか、そして、なぜ人々が今よりもずっとたやすく、素直にキリスト教を受け入れたのか、を明らかにしている。そして、その中で官兵衛自身が38歳で洗礼を受けるまでの厳しい人生について、聖書の言葉をわかりやすく解説しながら、語っている。

 下巻では、キリシタンとなった官兵衛がキリスト教を布教する宣教師をサポートし、秀吉のバテレン追放令にはじまる迫害をものともせず、戦場にも修道士を同行してキリストの教えを伝え、最後まで、日本に建てられた教会の保護者として力を尽くした生き様が語られる。

 こうした背景を知ると、大河ドラマでの官兵衛の行動には、その信じる教えというバックボーンがあるがゆえのものであったのでは、ということがわかって面白い。小田原攻めのとき、単身丸腰で敵陣に乗り込み講和にこぎつけたり、朝鮮での戦いから自身の判断で帰国し、この無謀な戦いをやめるよう秀吉を説得しようとしたり、それが秀吉の不興を買って蟄居を命じられると、剃髪して武将としての功績すべてを捨ててしまった、というのは、権力者としての敵将や天下人としての秀吉を、恐れていないからこそできることなのでは、と思う。このように、人間の「上下関係」から自由になり、己の信念で行動できる人は、人以上に畏れる存在を知っている人に、違いないのだ。

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