「推し、燃ゆ」

主人公の「推し」への熱中は、私に言わせれば愛情ではないのではないかと思う(むろん恋でもない)。

文庫版あとがき

あとがきを読んでやっと、自分のいらだちがストンと足元に落ちた感覚だった。

推しのこと以外はなにもできない、働けないし自分の生活すらままならない。そんな主人公に憤りしか感じなかった。
姉の「頑張らなくてもいいから頑張ってるなんて言わないで」って言葉が私の怒りを少しだけ鎮めてくれたものの、やっぱり許せなかった。


主人公あかりが推しの真幸くんを解釈すること、その解釈を言葉にすること、それはどれも彼が生きている、存在する、その実感や体温として受け取るには十分だった。そうして解釈された彼がより愛おしさを増して自分へ戻ってくる。自分の言葉と解釈で推しを語るのはとっても心地よくて、胸がきゅんとする、もっと好きになる。

けれどそれは時に暴力になる。

推しを自分の言葉で語る時、それは推しを自分のつくりあげた型に押し入れることになる。その型がいびつな形でも、美しい形でも、まんまるでも。
推しがその型に満足していようがそうでなかろうが、あちらから正解をくれることはない。
そうして自分がつくりあげた型から推しがはみでたとき、怒り、戸惑い、こんなはずでなかったと、いつから変わってしまったのか、ありえない、もう生きていけない、と勝手に失望し、推しのせいにして嘆く。
本当はこちらが勝手に作り上げた幻想にすぎないのに。(それでこそ偶像であり、「アイドル」なのかもしれないが)

そうして自分の解釈から推しが外れた時に、私を支えてくれていたものはなんだったのか、その実体のなさに絶望し、何もなかった自分に絶望する。


何かに縋っていないと生きていけない感覚を忘れ始めていた。
自分が生きているという証明、自分をどこかへ繋ぎとめておいてくれる何かがないと、自分の存在があるのかないのかさえ分からなくなってしまう。
ひとりの部屋でただひたすら、その時が過ぎるのを待っていたあのコロナ真っ只中にそんな感覚があった。
そんなときに推しは、私に解釈の余地を残して、存在してくれる。そんな推しも、私の解釈がなければ生きられない、そう思ってしまう。


あかりの真幸くんへの気持ちは愛でも恋でもない。
「推す」ということに意味があり、それは自分を自分で居させてくれるための行為であり「推している」自分に安心したかった。本当は何もなくても、「生きている」自分に安心したかった。そしてそれを、推しのおかげであると思いたかった。

自分勝手で傲慢で押し付けがましい、そうして自分を生かしていくこと。
それが「推す」ことなのであれば、なんて気色の悪い、と思ってしまう。

だから今この時、社会からその存在でさえ糾弾されているいまでさえ、
「居なくなったら生きていけない」なんて私は言いたくないし、
そんな重さを背負わせたくない。

そしてこの気持ちでさえ、自分勝手で傲慢で押し付けがましくて、暴力に繋がりかねないことを、嘆くしかないのがもどかしく、愛おしいと思ってしまう。


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