理解を目的に置く時代を終わらせた|言葉はタグでしかないとわかってしまったから
令和になる直前から感じていたことだけれど
理解が重要性を失ってきているように感じる。
わかってもらうための文章。
理解してもらうための表現。
それらを全部やめたら、何が起きるんだろうね。という話。
1|文章を書こうとすると、どうしてもわかりやすく書こうとしてしまう
今この瞬間もそうだ。
文章構成・言葉使い・例えるエピソードの内容
全部、仮想の相手をイメージしてわかりやすく伝えたくなってしまう。
だけどその目的をずらさないとなと最近思っている。
2|わかりやすいものは、知っているものだ
知ってるものは新しく読んでもあんまり面白くない。
わたしのペルソナはいつだってわたしなので
最近お客様が言い出したわけだ。
「サカキさんの書く文章、あんまり面白くない」と
わたしが言い出した。
これはまずい。
じゃあ、お客様、何をお求めですか?
と聞いてみたら、
わたしはこう答えた。
「なんか新しいの頂戴。
他ではみたこともないようなやつ。
理解は求めていないわ。
新しいイメージを頂戴。
ロジックは補足でいいわ。
同じ時代を生きている人のロジックなんて
正直大差がないもの。」
確かに。
お客様であるわたしの話を聞いて
わたしはえらく納得してしまった。
3|さらに質問してみる
うーん。じゃあ、新しく出会う人とはどのように会ったらいいと
お考えですか?
今までのわたしのやり方は、理解から近づく方法をとっておりまして。
説明して、納得してもらって、興味を持ってもらうことで
新しい人と出会っていたのです。
ついでだからわたしはわたしにこう聞いてみた。
「今周りにいる人を見てごらんなさいよ。
理解したから来た人って何人いるの?
なんとなく気が合ったから今一緒にいるんじゃないの?
結局イメージと温度感じゃない?
発してきた言葉なんてタグみたいなものよ。
タグが似ていたから検索に引っかかった。
それだけであって、文章で理解を促したから出会えたわけじゃないわ。
言いたいことを言っていればいいのよ。
理解させることなんて何1つない。」
またしても、なるほどと思った。
その証拠に、1つ前に理解用の文章を書いてみたけれどまるでダメで
もう心の底では理解なんて流行んないよーと騒いでいるものだから
挿絵が適当すぎる。
もうこういうのはわたしの仕事ではないらしい。
そうなってくると、1日1日起きたことを
日記のように発信し続けることが今の正解なんだろうなと思っている。
13日間実験することにしたから、この発信スタイルを続けてみようと思う。
さよなら、理解。
こうやっていつもデザインとアートの狭間を行ったり来たりしているような気がする。
周期的なものなのだろう。
今回は、どこまで振り切れるか。
広大な仮想空間の中でこんにちは。サポートもらった分また実験して新しい景色を作ります。