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OH!へんろ。親子の88か所巡り(76番札所):鶏足山 金倉寺(香川県)

わたしが、子どもたちと決めた今回のお遍路ルールは一つだけ。納経所で御朱印をいただくのは子どもたちの役割ということ。ちゃんと挨拶をして、御朱印をお願いし、最後はしっかり御礼をする、です。

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今日の煩悩:

「学問」は、学ぶために問いを立てることでもあります。終わりがないという意味では「道」なのかもしれません。学問道ですよ。

「道」であるならば、ひとりひとりが持てる能力を引き出し、上手いこといったら社会に貢献していただけると尚よろしい、という性格のものです。ですので、そもそもは相対評価をするものでも、勝ち負けを争うものでもないはずです。

ドラゴンボールの話で、ナメック星の最長老様に頭を触っていただくとですね、潜在能力を引き出していただけるんです。クリリンと孫悟飯がその持てる潜在能力を引き出してもらい、戦闘力が高まりましたが、「俺のほうが潜在戦闘力が高いぞ」などと下卑たことは言いません。

私は最長老様に撫でていただいても、何も変わらないくらい、潜在能力はありません。

さて、問題はこの「学問道」をまさに「相対評価」と「競争」あるいは「スクリーニング」のために利用し、その精神を疑いなく内面化させてしまった近代化でしょう。

日本の帝国大学はそもそも、国の発展の為に官僚や科学・技術者を育成するためのものだったわけで、「お勉強」を大学に入学するためのスクリーニング(ふるい分け)と根拠にしたということです。つまり、勝ち負けの基準を「成績」「点数」として、公金を一部の人に使うことの根拠を「競争」に求めたのです。

まあ、限られた希少な教育リソースを皆が欲しがったならば、何らかの競争が必要でしょうし、それはそれで意味があったのだとも思います(マイケル・サンデルのいう業績主義の議論が生まれる素でもありますが)。

しかしですね、これが過剰になりますと、いろいろと弊害が出てきます。そもそも、本当に「学びを問いたい」という人が、変な競争に巻き込まれて疲弊してしまうだけでなく、よくわからない業績の基準で「勝った」人やそのシンパが「学びを問う」という本来の価値を失った制度や人評価の仕組(学校化社会)を創ってしまうという弊害です。

「教育」が「個人のより豊かな将来」のための「スクリーニング」に成り下がってしまうとですね、教育は「商品」となります。資本主義の社会では、「コストは少なく、利益は最大に!」というスローガンが成り立ちますので、「勉強の時間は最小限、(卒業)資格をGETs」ということになります。コストは値段だけではありませんから。

「3か月でTOEIC730点をお約束」という塾があったとして、「2か月でTOEIC730点をお約束」という塾が近所にできたら、そちらに意識が移りません?

「15回の出席で単位認定可」と「11回の出席で単位認定可」はどうでしょう。沢山学びたい人もいれば、少ない出席で単位が欲しいという人もいます。なので、「この授業は何回まで休めますか?」という質問が長年残っているのでしょう。

それに、流石にこれは無くなるでしょうけど(わからんな)、業績が一つでも多い(または、入職の時の成績や学校歴が良かった)人が管理職やリーダーになるとかのマインドセットの人が組織にいると、いろいろと「痛い」ことが起こります。かつ、ポストを役割として理解しているのではなく、スクリーニングの対象として理解している場合もあり、結果として組織の生産性を低下させていることもあるのですが、当人は「業績主義」への信仰が篤くそれに気づきません。

近代化も終わり、成熟社会を迎えているにあたって、そろそろ、学校化社会(学校の外まで学校的な価値で回す社会)は見直した方が良いと思います。私はこの子たちの為に何ができるでしょう。

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御詠歌:

 まことにも神仏僧をひらくれば 真言加持の不思議なりけり

本尊:

薬師如来

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創建:

宝亀5年(774)

真言:

おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

歴史:

縁起によると、宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善が建立し、自在王堂と名づけました。仁寿元年(851)に官寺となった際に開基の名に因んで道善寺となりました。唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊としました。928年に醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんで金倉寺とされたそうです。

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所在地:

香川県善通寺市金蔵寺町1160

駐車場:

あり

公式HP:






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