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2023年、Jiniが選ぶ「現代を生き残るために見たい映画」ランキングTop10

2023年、我々の文明は、降下(fall)している。それも日本だけではなく、世界的にみて衰退、鈍化、逓減、そういう何かネガティブな方向へ、滝壺から身を投じるように落ちている。これは様々な観点で、網羅しきれない根拠から、誰もが薄っすらと感じていることだと思う。

だから娯楽を楽しんでいるとき、誰もが「果たして今こんなことをしている場合なのか」という罪悪感に、ほんの薄っすらとでも囚われていると思う。単なる「自粛」への同調圧力ではなく、いずれ始まる(既に始まっている)資源の争奪に挑むため、労働や勉強によってリソースを備えなければいけないのではないか──首相自ら育休中の「リスキリング」を推奨したように──という、きわめて利己的な強迫観念によって、もはや娯楽を楽しんでいるどころではないのだと感じている人は少なくないはずだ。

こうした世相において、我々批評をする人間が本来かけるべき言葉は「いいや娯楽は、余暇は、無駄なことは、人を豊かにする。争いだけが人生ではない」なのだろう。だが残念ながら、「余暇の時代」はとうに終わっていることを、筆者自身も認めざるを得ない。そして、その絶望的なホッブズ的世界観で生き残るうえで、娯楽が最も重要な「武器」なのだ、単なる労働や勉強より映画を観ることこそが「生存」に直結するのだと、非常に下品で唾棄すべき激励をしなければならない。

そこで私は、今これを読んでいる方に向けて、現代社会で生き残るにあたって役立つであろう映画を、2023年で公開された作品からランキング形式で10本紹介したい。ただ先に断っておくと、これは純粋に筆者なりのベスト映画である。「生き残るための」という副題は、私が一度2023年のベスト映画をすべて出し終え、その内容を吟味する上で「結果的に」気づいた(絶望的な)現代映画のモードなのだった。それはつまり、現代の娯楽が既にこの無尽蔵の紛争に動員されつつある、ということだ。

前置きが長くなった。つまりこのリストは、単なる筆者個人が楽しめた映画を10本紹介したものなので、もし面白い映画をお探しなのであれば、ぜひこのリストを参考にいただければ幸いだ。あるいは、もしこのリストのうち何本も観た人なら、その選評(全部で11000文字もある)を踏まえてあなた自身の考えを膨らませていただきたい。


10位:アリスとテレスのまぼろし工場

日本が喪失したものを正しく見つめなおす

岡田麿里という脚本家がいる。1976年生まれにして、多種多様なアニメーション作品に脚本家として関わった彼女は、2011年に超平和バスターズ名義で原作に関わった「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」で高く評価され、2018年には「さよならの朝に約束の花をかざろう」を単独で監督、そして2023年、気鋭の制作会社MAPPAの初オリジナル劇場作品として本作「アリスとテレスのまぼろし工場」を完成させた。

こうした経歴から岡田麿里の立場は、(本来)高橋留美子や武内直子、CLAMPなど女性作家の手によって大成しつつも、男性的な資本と権力によって分離独立した戦後美少女文化を、再び女性の手によって(しかし男性でも受容可能な形で)奪還することにあったという見方が可能である。

実際にこの歪な文脈は、岡田麿里が関わった作品のなか、特に男女の関係性として具体化する。つまり、本来であれば男性に都合よく「ヒロイン」としてリサイズ(抑圧)された美少女キャラクターに対し、岡田作品では剥きだしの現実と相応の精神的葛藤によって美少女の「苦悩」を女性的視点から明瞭にしつつも、無能さを抱えた男性主人公との相互理解による回復をラブロマンス的に着陸させるという、従来の男性的脚本をうまく延長させつつも女性的視座の補完・揺り戻しを行ってきたのが岡田作品だったと言えるだろう(ここに対しては宇野常寛のように「男性中心の市場に対する妥協である」という批判もある)。

「アリスとテレスのまぼろし工場」が展開する物語は、こうした岡田作品の延長線上にあるものと言って過言ではない。ただし岡田の単独監督として、彼女の作家性を前面的に剥きだしにしたことは、1990年代の舞台背景、そしてそこから転ずる「平成」と「失われた30年」のドラマツルギーから見て、明らかだろう。ただ結局のところ、彼女が抵抗し、奪還した男性的美少女文化と平成的な家父長制度という二重の葛藤に対し、それに追随するものがいない無能感を全面化した結末は、皮肉にも同年に展開された「君たちはどう生きるか」と共有しており、その点では岡田作品の飛躍には至らなかったと思う。

ただし、それでも「アリスとテレスのまぼろし工場」には従来の岡田作品以上のものを感じさせる。恐らくそれは、岡田とタッグを組んだ制作会社、MAPPAの影響が大きいのだろう。岡田が近年組んだA-1 Pictures、P.A.Worksとの作品と異なり、「進撃の巨人」「BANANA FISH」そして直近で「呪術廻戦」と青年漫画を扱うMAPPAがもたらす、グロテスクでありながら平成後の風景を捉えようとしてきた印象が、岡田の葛藤と妥協に対して驚くほど補完関係にあったのだ。


9位:AIR/エア

価値観で飽和した現代におけるアメリカンドリームの再興

はっきり言って、ベン・アフレック監督が撮影する映像の面白さは、常に80点前後におさまっている。TVバラエティ的に「観れる映像」を作らせれば天才的だが、それ以上に「没入する映像」はどうしようもなく作れない。だからこそ、そんな彼にはテーマ性という点で天性の才が与えられた。誰も取り上げなかった問題性を80点の「観れる映像」で可視化する。彼ぐらいしかそれはできず、それしか彼にはできない。

だからこそ、「AIR/エア」の成功は半ば予定調和的でありながら、しかし認めざるを得ないものとなった。それはエア・ジョーダンと呼ばれる伝説的スニーカー誕生の物語。その企画だけでほぼ勝ちが確定しているだろう。これほど多様性を求める時代において、スニーカーという誰もが愛し、しかし誰も救わなかったテーマに、バスケットボール(NBA)の存在感と、マイケル・ジョーダンの神格性を借りてブラック・エンパワーメントを受容しつつ、その主体としてスタートアップ的なサバイバリズムで突貫する。

単なるマイノリティへのスポットライトではない。むしろソーシャルメディア全盛の現代ではスポットライトが飽和している中、マイノリティによってマイノリティが埋没するという現実に、この企画をぶつけられただけで既に強いのだ。

もっとも、1980年代の映像美というフォローアップに関しても、アフレックらしいディティールによって隙がない。衣装や小道具に関しては1980年代への憧憬がありありと見えつつも、NBAとスニーカーという2020年代で全盛を迎えつつある現代と接続することで、それを単なる懐古にしていない……これはまさにアメリカ/ハリウッド想像力の物量作戦でしかないのだが、「戦後」の想像力から未だ脱却できない邦画の事情を鑑みるに、羨まずにはいられないだろう。


8位:デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム

理解されざる者を理解する

他者を理解することは困難である。しかし、デヴィッド・ボウイほどの人物を理解することは、もはや誰にとっても不可能であろう。

本作は世界で最も有名な「ロックスター」の一人、デヴィッド・ボウイの生涯を追うドキュメンタリー。デヴィッド・ボウイ財団が保有する膨大な映像を引用しつつ、その軌跡を追うというもの。しかし現実的に考えて、ボウイという男を体系的に理解することは可能なのだろうか?もちろん不可能である。それほど彼の作品と人生は不可解であり、それゆえに音楽、映像、ビデオゲームにおいてさえ(小島秀夫が『MGSV』において引用したのがボウイとメルヴィルなのは象徴的だ)、時に恣意的に、時に当事者さえよくわからないまま、影響を与えてきた。

とはいえ客観的なボウイの功績の一つが、単に音楽だけではなく映像、衣装、演技という視覚的なアプローチに、さらに既存のイデオロギーやセクシャリティから逸脱していく哲学的カリスマによって、メディアやカルチャーの垣根を越境していく姿勢にあったことは広く認められる事実だと思う。西寺郷太が指摘するように、ボウイが映像と音楽をチャンネルに載せてアーティストをデビューさせる「MTV」の試みの火付け役となったことで、ロックシーンの転換点を作り出したことはその象徴だ。

だからこそ成立する映像美がこの「デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム」なのかもしれない。そのタイトルの通り、本作は客観的な資料映像と主観的な創作映像を織り交ぜることによって、意図的にボウイの実像を幻想のままにしておこうとする。そこにボウイ自身のクィア的音楽、映像を直接混ぜることで、ますます夢遊病的な彼岸へと引き入れる。それは時折過剰すぎるように思われるのだが、しかしボウイとは何かという本作の核心に迫るアプローチとしては誠実なものに思う。

ソーシャルメディア全盛の現代において、他者を理解した「つもりになる」ことはずいぶんと容易になった。それはつまり、加工したセルフポートレートや便乗したイデオロギーのツイートなど自ら虚構化したアイデンティティをさらけ出すことで、逆説的に相互を虚構の存在として理解した「かのように」ふるまわなくてはならない時代だ。その点、断固として理解を拒み、そして実際に誰も理解が及ばなかったボウイの存在は、単なる音楽的・映像的な偉業にとどまらない、現代性を帯びているといえないだろうか。


7位:機動戦士ガンダム 水星の魔女

ガンダムにおける疑似家族モチーフのシスターフッド的再帰

本稿で紹介する作品の中でも「機動戦士ガンダム 水星の魔女」の評価が特に芳しくないことは承知している。単に深夜アニメという題材、中でもガンダムというシリーズものという地位的な問題もあるが、そもそも作品としてもとっ散らかった伏線や、特に脇役に対する不十分なケア、また人によってはクィアベイトを巡る製作陣の無責任な発言も許容できないだろう。筆者もそれらを特に擁護するつもりはない。

しかし本作が捉えたテーマ、つまりガンダム史上初めて女性=スレッタを主人公に迎えつつ、その宿敵としての母=プロスペラ、そして2人の臨界点としてのガンダム・エアリアルと、その正体であるプロスペラの娘であり、スレッタの姉であったエリクトを巡る、母娘と姉妹のテーマに関しては、明らかに国内外で頭一つ抜けた結末を見せたと思っている。

本来、「機動戦士ガンダム」とはファーストの時点で疑似家族、とりわけ父、兄、弟の男性的な家族関係を描いてきた。それも単に「父殺し」に落着するのでなく、実父(テム)と育ての父(ブライト)、兄(リュウ)や弟(カイ、シデン)、連れ子の兄(スレッガー)など、疑似家族の構造でありながら複雑な家庭環境が描かれ、その中で相互に衝突と理解を深めていく。

以降もガンダムは「ロボット同士の戦争」という表面的テーマの背景に、血縁、地縁問わない「家族」を裏テーマとして描き、それは直近「鉄血のオルフェンズ」においても少年兵をBL的想像力で結びつける形で継続されてきた。しかし「水星の魔女」においてはこの家族的モティーフは血縁関係を中心に、しかも「母と娘」「姉と妹」という具体性を持って回帰し、物語の根幹に据えられた。

無論そこにはガンダムらしいセリフのぶつけ合い、地上と宇宙で繰り広げられるメカアクションといった「ガンダム」のフェティッシュも盛り込まれているのだが、これらと「母、姉、妹の邂逅」が同時に実現した22-24話は、それだけで傑作と評せられるほどの高揚感があった。

中でも重要なのは、姉=エリクトが水子であり、妹のスレッタはその命を受け継いだ……というプロットツイストだろう。星野源「兄妹」を思わせる、一度喪失したシスターフッドを母もろとも再構築するというスレッタの推進力は、今を生きる「エース・パイロット像」そのものと言ってよい。


6位:ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3

ダイバーシティよりオルタナティブを

アメコミ原作映画を無視できない理由の3割ぐらいは、恐らくジェームズ・ガンという希代の監督がそこに入れ込んでしまったからだと思う。2014年の「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」で起こした「アメコミ映画」に対する革命は、サム・ライミやクリストファー・ノーランのそれにも匹敵する、いや、継続性という点ではそれ以上かもしれない。

なぜ、人はジェームズ・ガンを無視できないのか。彼の作品に付き合わざるを得ないのか。非常に恣意的な手口によって一度マーベルから追放された彼が、数々の演者と共に再び復帰した、いやディズニーが復帰を認めざるを得なかったのは、彼があまりにオルタナティブだからだと思う。筆者は「AIR/エア」評の中で「マイノリティが飽和する」と言ったが、このダイバーシティの時代にオルタナティブで居続けられる映像作家を、人々は無視することができない。

そのオルタナティブ性が最大に発揮されたのが「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」なのは、既にファンの多い作品であるからして説明が不要だと思う。これほど広がったヒーローの像がありながら、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」ほど魅力的で、個性的で、何よりも、そうした仲間たちとの関係性によってドラマを広げられるあり方があっただろうか。スペースオペラという懐古的で、時として暴力的テーマを、ここまで美しく再構築した作品があっただろうか。

しかし「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3」がもたらしたオルタナティブは、ある種、マーベル的なヒーロー像だけでなく「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」そのものにも向けられる。つまり、ビルドゥングス・ロマンの中心であったピーター・クィルでなく、その隣にいたロケット・ラクーン目線での視点で貫徹してしまうのだ。価値観で飽和する時代が故に、取りこぼされてきた可能性や尊厳を、自ら構築した虚構の中で取り上げるという精神を、多くのエンタメ関係者は胸に刻むべきであろう。


5位:エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス

アイデンティティとして取り戻す母性

2023年度アカデミー作品賞を受賞したが故に、「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス 」は様々な角度から批評されたと思う。マルチバースという現代の映像作品のトレンドを揶揄的に導入しつつ、そこから繰り広げられるMCU顔負けのユニバースごとの想像力や、アジア人や母性というマイノリティ視点でのまなざしもまた、本作の魅力と言えるだろう。

しかし、やはりその中心となっているのは、「母」という長らく世界中で、半ば強迫的に女性を蝕み続けたテーゼを、「母」当事者自らが肯定し、アイデンティティとして回復することにあったことに疑う余地はない。

物語はアジア系移民のエヴリンが、夫のウェイモンドとしがないコインランドリーを経営しつつも、思春期を迎えた娘のジョイとのギクシャクした関係に悩む、という導入から始まる。しかし、突如としてエヴリンはマルチバースの世界に放り出され、各ユニバースごとに存在する自身、ウェイモンド、ジョイとの親子関係、そして近所に住む他人との破天荒な関係にもまれていく。

しかし、どのユニバースにいても、実は結局エヴリンがジョイとの関係性に悩み、ウェイモンドと一緒に苦労するという問題は変わらない。映像も物語もムダにスケールが大きいが、結局どんな宇宙であっても家族は家族のままなのだということを、マルチバース旅行を通じてエヴリンは痛感する。そこで結局、エヴリンは「母」に立ち返るのだが、しかしそれは理想化された「母」ではなく、あくまで彼女自身の後悔や成長に寄り添い続けることで、アイデンティティとして選んだ「母」だ。

「母であれ」──この強迫観念は長く、女性たちを苦しめ続けた。そしてこのテーゼに疑いを持ちかけられた現代において、あえて否定するのでなく肯定する。そのために、マルチバースという滑稽なまでに壮大すぎる装置を用いて(しかし、それが必要なほどの強迫観念だったのだ)、アイデンティティとして「母」を自ら肯定し、貫き通す。その鮮やかすぎるパラダイムシフトによるカタルシスに、女性だけが涙を流すわけではない。


4位:イニシェリン島の精霊

知性という拭い難い格差

2人の中年の男がいる。男たちは固い友情で結ばれていた。しかしその友情は解けた。何故なら1人があまりに愚かであり、もう1人が愛想をつかしたからだった。「イニシェリン島の精霊」をめぐる物語は、現代における「知性の格差」の寓話である。

現代において、我々性、人種、経済、環境など様々な格差を目にし、糾弾している。しかし、その中でも知性の格差に関して指摘する者は少ない。不思議なものだ。我々が普段用いているインターネットを介したとき、性も人種も経済も不可視なものであるのに、知性の格差だけは様々な主張という形で可視化されているというのに。

しかし、そもそも知性の格差とは何だろう。ただ勉学によって培われた知識や学歴なのか、それとも芸術や自然を愛でられる感性、あるいは善意をもって他者に接せられる倫理なのか。結論を言えば、これら全てが例外なく知性である。これら全てが知性なきものに与えられず、したがって持たざることにすら気づかない。逆に知性を身に着けたものは、自らの持つ知性の不足や偏向に気づき、補おうと試みる。金持ちは札束も不動産も高級車も持っているが、貧乏人はそのうち何も持っていないのと同様だ。

「イニシェリン島の精霊」に登場する2人の主人公は、一応ある時点までは実際の友情で結ばれ、少なくとも物語が始まる寸前までは崩壊寸前といえ友情の体裁を維持していた。しかし、その広がり続ける格差に対して、知性のある者がついぞ耐えられなかった。置き去りにされた者は、作中で何度もこう叫ぶ

「僕はこんなに”ナイス”な人間なのに、どうしてだ!」

格差の当事者にすらなれないことが、一体どれほど深刻な格差なのか。マーティン・マクドナー監督とコリン・ファレルは残酷なまでにこれを描き切った。


(以下、3位から紹介。果たしてあのゲーム映画はあるのか?)

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