『SANABI』の真実 韓国文化と韓国社会から考察する「韓国ゲーム」の達成
2023年には多くの韓国発のビデオゲームが話題になった。インディーゲームとしては異例のヒットとなった『Dave the Diver』、リッチな表象でソウルライクを再解釈した『Lies of P』、ダンジョンクロールを対人ゲームとして落とし込んだ『Dark and Darker』などだ。しかし、こうした韓国産ゲームの中で筆者個人が最も評価しているのが『SANABI』である。
『SANABI』は韓国のインディースタジオ「Wonder Potion」によって開発された、ワイヤーフックを中心に繰り広げる2Dアクションゲームである。本作はフック操作によるスピーディなアクションが魅力的なタイトルだが、とりわけ評価されたのが、そのストーリーである。日本を代表する作家、奈須きのこが自身のブログの中で「ゲームライターとして致死級のダメージを受けました」と評するなど、2023年のインディーゲームとしては異例の好評を得た。
(配信などでも好評だったSANABI)
しかし、筆者自身が本作が注目したのは、何より本作が韓国社会、韓国文芸など韓国独自の様々な想像力に立脚しながら、「韓国でしか作りえないゲーム」として、真に”韓国ゲーム”として完成させきった点──他の(大ヒットした)韓国ゲームはおろか、日本のゲームにも、アメリカのゲームにも達成できない、ビデオゲームとして至上の物語体験を完成させたことにある。
言うならば、今、アカデミー作品賞にも選ばれた「韓国映画」や、2023年の紅白歌合戦でも歓待された「韓国音楽」と同じく、韓国ならではの「韓国ゲーム」が誕生したことに、大きな感動を覚えたのである。
『SANABI』には一点、日本語の翻訳の品質が非常に悪いという問題を抱えていたのだが、その問題が2月に改善されたこともあって、改めて今、注目を浴びている。そこで本稿では、『SANABI』が描こうと試みた韓国的な社会背景や、本作で引用されている韓国のフィクションを解説しつつ、「韓国でしか作れないインディーゲーム」として『SANABI』がいかに優れているのか、という批評を行いたい。
(※)当然ですが、本稿は『SANABI』のネタバレが含まれます。
韓国社会に属するセクスプロイテーション「アジョシ的メタファー」を踏襲した『SANABI』
本作のストーリーについて考えるうえで、まず『SANABI』のストーリーを具体的に振り返っていこう。
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主人公はかつて「将軍」と呼ばれ、伝説の兵士として軍から畏敬の念を集めていた。そんな主人公だったが、娘が生まれてからは前線を退き、田舎で娘と2人で暮らしている。ところがある日、「SANABI」を自称するテログループにより、愛する唯一の娘が殺されたことで、主人公は何年もこの「SANABI」を追っていた。そしてまさに、このマゴにおける事件の首謀者が、「SANABI」だったのである。
かくしてマゴ市の下層部に潜入する主人公。そこで主人公は、「マリ」というマゴ唯一の生存者と接触し、2人は協力しながらマゴの中核へと侵入していく。マリは主人公を「おじさん/アジョシ(아저씨)」と呼び、高度なハッキング能力を駆使してサポート。そしてスラム、市街、工場、上層部とマゴ市の難関を次々に突破しながら、そのたび、主人公とマリの間には絆のようなものが芽生えていく。
その間、なぜかマリは主人公や「SANABI」のことを以前から知っていたような素振りを見せていく。マリは何故自分を知っているのか、まさかマリは「SANABI」の一部ではないか。徐々に2人の間には亀裂が生じていき、やがて主人公は自分を貫くか、マリを救うかの2択を迫られる。そしてマリを救うことを選んだ主人公は衝撃的な真実を知る。
その真実とは、主人公の正体は既に故人となっていた「将軍」の人格データをインストールした作業用アンドロイド、ウォーカー17287であり、「将軍」の人格データの大半を作ったのが娘のマリで、そのデータから軍用アンドロイドを量産しようと試みたマゴ社によって「将軍」は殺されていたのだ。また「SANABI」などというテロリストは最初から存在せず、その正体はマゴがロボットに殺戮を促すためのマクガフィンなのであった。
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以上が『SANABI』の、結末を除いた顛末である。
これらを鑑みたとき、筆者個人の主観として、『SANABI』は一般的なビデオゲームにおける物語体験の水準を高度に達成していること、これは否定の余地がない。
衝撃的な冒頭に始まり、少しずつ謎が明らかになっていくサスペンス。主人公とマリの関係性にフォーカスした愛憎の交わるドラマ。背景の細かやかなビットアートに対し、キャラクターたちの日本アニメ的なコミカルさが際立つビットアニメーション。中盤の停滞から一転、終盤の怒涛の展開と叙情的な対話は、古典的なシド・フィールド的三幕構成を忠実に守っており、開発者の作劇に対する理解の深さをうかがえる。
しかし、言い換えれば本作は、上質に王道をまとめあげたという水準を、表面的に逸脱していない。
言い換えれば、おそらく多くのプレイヤーが感銘を受けた主人公とマリのドラマ、その真相に迫るサスペンスという点においては、実は本作は決して目新しいことに挑戦したわけでなく、つまり韓国映画や韓国カルチャーに一定精通している者なら、はっきりと元ネタとなったであろう韓国作品を思い出せるのだ。
では本作に影響を与えたであろう作品は何か。結論から言ってしまうと、本作はパク・チャヌク監督『オールド・ボーイ』(올드 보이)とイ・ジョンボム監督『アジョシ』(아저씨)の、2作の韓国映画から特に強く影響を受けたものだと想像ができる。
ではここから『SANABI』とこれら韓国映画の共通点を探るうえで、『オールド・ボーイ』『アジョシ』2作のあらすじも簡単に説明したい。
(※以下、2作のネタバレを含みます)
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『オールド・ボーイ』は妻子を持つ平凡なサラリーマンが、何者かによって15年監禁された後に解放される。主人公は自分を監禁した者に復讐すべく韓国中のヤクザたちを拷問して回るが、そこでミドと名乗る美女に偶然出会い、失った15年を取り戻すように惹かれ合う。そしてついに、監禁した犯人がとある大企業の社長と突き止め、その高層ビルの社長室まで追い詰めることに成功する。
しかし、そこで犯人に告げられた事実は、ミドは実は主人公が監禁前にもうけていた娘であり、主人公は彼女と近親相姦していたという事実だった。さらに犯人は、自分が幼少期に実の姉と恋仲であったが、偶然それを知った主人公に暴露され、そのために姉が自殺してしまったことが復讐の動機だと話す。すでに復讐を達成した犯人は自殺し、主人公は自らの舌を切断して廃人となってしまう。
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『アジョシ』はかつて特殊部隊の超人的兵士だった主人公が、自らの妻子をテロリストによる報復で喪い、そのショックから場末で引退生活を営んでいるところ、偶然隣に済んでいた母子と出会うところから物語が始まる。主人公は少しずつ娘と仲良くなり、喪った人間性を回復していくのだが、娘から「アッパ」と呼ばれた際に逃げてしまい、その間何者かによって母子はさらわれてしまう。
母子を取り戻すべく、次々にヤクザたちを殺し、その所在を探っていく主人公。そこで母子をさらったヤクザたちの正体が、麻薬取引や臓器売買を行う凶悪な兄弟であること、既に母は殺されていたことを突き止める。凄惨な戦いを経て、ついに兄弟を殺し、囚われていた娘を解放した主人公は、娘に「一度だけ抱きしめたい」と言って抱擁しそこねた彼女を、涙を流してその胸に抱く。
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さて、すでにこのあらすじを読んだ方は『SANABI』が韓国エンタメのある種「王道」ともいうべきプロットを丁寧になぞっていること(=2作以外の多くの韓国映画にも類型のプロットはある)──言い換えれば、『SANABI』はすでに世界的に支持される韓国映画をビデオゲームというカルチャーに「輸入」しようと試みたこともわかるはずだ。
具体的には、まず主人公が伝説的な特殊部隊の兵士、という点であれば『アジョシ』の主人公そのものであるし、自然と徴兵制が敷かれた軍国主義的な韓国の社会背景を想起できる。
高層オフィスが決戦の舞台という点では『オールド・ボーイ』と共通しており、先述の通り財閥が支配する韓国の経済体制への批評性も繋がっている。また『オールド・ボーイ』も『アジョシ』も、ノワール的なプロットに、ハードボイルドを体現する主人公が突貫するという点で、やはり『SANABI』とテーマを共有している(これらの映画は、韓国ネオ・ノワールとも呼ばれる)。
このように『SANABI』はさまざまな点で韓国映画的な想像力を引用しているのだが、これらの点が瑣末とさえ言えるほど、この3作品に共通する極めて重要な概念がある。それが「おじさん」(=アジョシ、아저씨)と「お父さん」(=アッパ、아빠))の対照的な「父性」のテーマである。
すなわち『SANABI』『オールド・ボーイ』『アジョシ』には、まず中年以上の、何か大きな喪失を抱えた男性が主人公として登場する。『SANABI』の主人公は文字通りロボットとして空洞な存在、『オールド・ボーイ』は15年の監禁による憎悪、『アジョシ』は喪った妻子などがその典型である。
その次に、少なくとも彼よりは年若いが、同じように欠落を抱えた女性が登場する。『SANABI』のマリは殺された肉親への復讐心を、『オールド・ボーイ』のミドは失踪した父親の影を、『アジョシ』のソミは蒸発した父親と殺害された母親の存在を、それぞれ求めている。
そしてこの3作は、この中年の男と、年若い娘という「歳の差にある異性」が出会うことが、そもそも物語の起点となっている。
こうして出会った2人は、半ば必然として惹かれ合う。しかしその2人の間における情は、異性としての情愛か、あるいは親子としての親愛かが、錯誤した、あるいは歪曲した形で発揮される。その疑似近親相姦的な危うさとフェティッシュが、作中における暴力や不条理と結びつくことでドライブしていく。この危うげなカタルシスこそ、これら3作に通じる韓国らしいテーマ設定といえるだろう。
とはいえ、この中年男性と若い女性の擬似父娘的なドラマの典型は、韓国文化の固有のものではない。
リュック・ペッソン監督の『LEON』やジョン・ウー監督の『男たちの挽歌 最終章』、それこそゲームなら前回批評した『The Last of Us』にその元ネタとなったフランク・ミラー原作『シン・シティ』など枚挙に暇がない。邪推すれば、マッチョな肉体と精神を体現した男性が、年下で美貌の少女を庇護するという流れそのものが、父・男として実直に男性的な快楽を満たすのは想像に難くないからだ。
しかし、こうした世界各国で見られる典型の中で、『SANABI』『オールド・ボーイ』『アジョシ』のような韓国作品にしかない、独特の蠱惑的な緊張感とでも呼ぶべき魅力があるのもまた事実である。ではその魅力とは何か。これをもっとも端的に表している言葉が、作中に登場する「おじさん/アジョシ(아저씨)」という表現である。
この3作ともに「アジョシ(아저씨)」という言葉が何度も頻出する。ではこの「アジョシ(아저씨)」という言葉は何を象徴しているのか。日本語に直訳すると「おじさん」、英語なら「Uncle」ないし「Mister」、つまり歳上の男性に向ける代名詞である。よってもっぱら、3作における若い女性=マリ、ミド、ソミの3人が、それぞれ主人公に向けて「アジョシ」と呼ぶのである。
しかし、実際には(日本語の”おじさん”がそうであるように)、この言葉には言語化しがたい文脈がある。私は韓国語ネイティブではないが、年端もいかぬ娘に「アジョシ」と言わせることには、明らかに「父娘:男女」の情動的なボーダーラインを誤魔化し、いうならば、そのボーダーラインを越境してしまう禁忌を誘う、そういう「アジョシ」固有のエロティシズムが込められていると言えるだろう。
事実、作品内容としても『オールド・ボーイ』ははっきりと実の娘に姦淫をはたらき、その事実によって終盤、主人公は自害寸前にまで追い詰められる。一方『アジョシ』という作品では、赤の他人に過ぎない少女と半ば縁故関係を成立させ、その事実によって主人公の空虚を埋め合わせる。そして『SANABI』では過去の娘と現在の女のイメージを往復させることで、「アジョシ」の越境的な印象を強く与える。
このように3作において「アジョシ」という言葉が出ること──1作はタイトル名自体がアジョシである──には、作品内容としての「父娘:男女」のボーダーラインを往復するかのような情欲と暴力の描写によって裏打ちされ、両者の近親相姦的なエクスプロイテーションによってドラマが加速するという構造が共有されている。
この「アジョシ的なドラマ」は、単に父性の独善的な充足と、薄まった倫理的な葛藤が強化される凡庸な他国の類型的な物語以上に、明らかに韓国独自のものとして受容されている。その理由として、韓国社会に根強く残る家父長制の社会構造と儒教的な倫理観、およびそれらを推進・反発する相反的な時代背景があり、こうしたバックグラウンドによって一層「アジョシ的モチーフ」は、父と娘、男と女というアンモラルな関係性が強調されていると考えられる。
さて、話が長くなったが『SANABI』の物語は、あくまで『オールド・ボーイ』『アジョシ』に代表される韓国映画=アジョシ的なモチーフを極めて率直に踏襲し、継承したものであることは、すでに理解いただけたかと思う。ゆえにそのドラマの大部分は、ネット上における多くの反響と異なり、必ずしも驚きに満ちた独自のものではなくて、あくまでも韓国映画、韓国文学をゲームに「輸入」したことが、いったんの達成なのである。
言い換えれば、『SANABI』は(ややこしい言い方をすると)「韓国映画的なゲーム」であって、独自に確立した「韓国ゲーム」にはなっていない「はず」だった。実際『SANABI』に限らず、ゲームファンに絶賛されたものの映画や文学ではすでに同様の試みのあった事例=単に映画や文学を輸入しただけで、ゲームとしての発明がない作品は、少なくない。
『SANABI』は一見するとそういう作品であり、確かに韓国映画を輸入する発想は悪くないが、意地悪く言えば、単に韓国映画や韓国小説に馴染みのないゲームファンを狙い撃った、商業主義的に優れた作品と評することも可能だったはずである。
しかし、それは全くの過小評価であった。『SANABI』は非常に韓国映画、韓国文学におけるアジョシ的なモチーフを大部分踏襲しながら、最後の最後、ある契機を経てゲーム独自のプロットを広げ、ひいてはゲームでしか得られない韓国的な体験、すなわち「韓国ゲーム」を確立するにいたった作品だったのである。
『SANABI』が達成した「韓国ゲーム」の本懐
すでに述べた通り、本作は「アジョシ」に代表されるような韓国映画を踏襲した内容──、つまり一人のハードボイルドな男性が主人公となり、若い娘=マリとの間に情愛のようなもので結ばれるものの、実はマリは自分の実の娘であるという流れだった。
とりわけ「娘」と「マリ」を出し、これらをごちゃ混ぜにして錯誤させるというプロットツイストは、『オールド・ボーイ』では過去/現在の時間軸の移行によって「娘か、女か」という近親相姦的なクリフハンガーとみごとに共通しており、直接的に参照されたことは容易に想像ができる。つまり『SANABI』における「娘とマリ」、『オールド・ボーイ』における「娘とミド」のように、2人の「女」を出すことで両者を錯誤させるレトリックがそのまま踏襲されている。
このように、ヒロインである娘、および娘と主人公の関係性(=アジョシと呼ぶ・呼ばれる関係性)にのみ注目すると『SANABI』は従来の韓国映画を踏襲している。しかし、実は『SANABI』には韓国映画にはない、大きな差異が一点ある。
それが、「父」「男」である主人公そのもののバックグラウンドである。
『SANABI』の主人公は、映画『アジョシ』の主人公と同じく、かつて特殊部隊で伝説的な活躍をした兵士である。周囲には「将軍」と敬われ、一騎当千の実力をもっているが、しかし、すでに自分の家族を持ったことから引退の身であったのだが、(これも『アジョシ』と同じく)凶悪なテロリスト「SANABI」によって自らの娘を殺されてしまう──。
少なくともこの筋書きを信じ、プレイヤーは主人公となる将軍を操り、敵を撃破し、マリを守り、愛を深めていく。しかし、実はここに大きな、もう一つのプロットツイストがあった。
そう、主人公は実は「将軍」本人ではない。「将軍」の人格データを抽出し、それを戦闘用にマゴが改造したものを、とあるアンドロイド──製造番号は、ウォーカー17287──にインストールしたもの。すなわち、主人公は「父」でも「男」ですらない、ただのロボットだったのである。
つまり、「若い女:実の娘」として『オールド・ボーイ』の「死んだはずの娘:ミド」、『SANABI』の「虚構の娘:マリ」のように、それぞれのヒロインが近親相姦的な錯誤を誘導する一方で、『SANABI』においては、主人公側もまた「無機物のロボット:実の父親」として「将軍:ウォーカー17287」という主人公側の錯誤が行われている──しかもその事実を、娘本人が認識していたという形で、明かされる「二重の錯誤」こそが作品の本質になっている。
この結果、ある種奇妙なことが起きる。つまり、『オールド・ボーイ』にしろ『アジョシ』にしろ、肉欲:肉親的な主人公の欲望が物語が進むたびに高まり、それによって男根に基づいた破滅的:救済的なカタルシスを得る一方、『SANABI』においてはむしろ、主人公が単なるロボットにすぎなかったという点において、肉欲:肉親的にも断絶され、むしろ男根は「去勢」されてしまうのである。
言い換えれば、従来の父娘的な関係が見られる作品が、観客の「男」ないし「父」としての男根的な二重の欲望を実直に満たしていくのに対して、本作では「人間ではなくロボットであった」という点で、男としても父としても、同時に男根的な欲望は「去勢」されてしまう。これは従来の「アジョシ」的な韓国映画はもとより、『LEON』や『The Last of Us』など類型の物語においても、例のない展開だ(一部例外もある)。
では本作は一体どうして、ヒロインのみならず主人公にまで、このような「錯誤」的な仕掛けを採用したのか。またその「錯誤」によって一体どんな体験があるのか。実はこれが「韓国ゲーム」として非常に重要なポイントとなっている。
結論から言えば、「将軍:ワーカー17287」の「錯誤」が意味するものとは、ビデオゲームの媒体の性質上、必然的に生じる「主人公:プレイヤー」の「乖離」のメタファーである。
すでに一定のゲーマーであれば知っての通り、ビデオゲームの物語表現の難しさとは、映画や文学とことなりプレイヤーが直接主人公を操作し、意思決定を行う点にある。
つまり主人公がどのような挙動をするのかは全てプレイヤーに委ねられるし、場合によっては、倫理的に何を善とし悪とするかまでもプレイヤーに委ねことになる。その場合、一定の「主人公」の像を作ることが難しくなり、特に「主人公」の像があらかじめ決まっているほど、プレイヤーがとった行動や意志との乖離が問題となる。(これをLudonarrative dissonanceという)
一方、この性質を逆手にとり、メタフィクション的にゲーム独自の物語を作ろうと試みた例がいくつかある。
例えば、『AIR』というノベルゲームにおいては前半は主人公が能動的にヒロインと関わり、彼女たちの問題を解決しようと試みるが、後半部分では「そら」という無力なカラスの視点で描かれ、彼女たちの問題に一切関与できない様子が描かれる。つまり「そら」とはプレイヤーの視点であり、ゲームの世界に自己投影しても投影しきれない無力さをメタ的に描写しているという点は、主にゼロ年代批評などでも指摘されていた。
『SANABI』における主人公の錯誤とは、こうしたゲーム的なメタフィクションの文法を踏襲している。つまり主人公がいくらマリと親子関係であったとしても、当然ながらプレイヤーにとっては赤の他人であるからこそ、主人公は将軍=父親本人ではなく、どこにでもあるロボットでなければいけなかった。同時に、戦闘用のソフトをインストールされたロボットというのも、プレイヤーがコントローラーで入力し、主人公を操作するという構造をメタ的に表現している。
もっともこれだけであれば、単に韓国映画をベースにしたストーリーを、ゲームの古典的なメタフィクションによってアレンジを加えただけにすぎない(主人公をメタ的に再解釈した例なら『FF7』のクラウドや、『Half-Life』のゴードン・フリーマンなど枚挙にいとまがない)。
しかし、ここで『SANABI』の真にユニークで、「韓国ゲーム」的であるというのが、その結末部分である。
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