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『種まく人』を観て

まるで知識はないのだけど、最近美術が好きだ。
(そもそも、私は昔から絵を見ることも描くことも好きだったのだ。中学の美術で、評価「2」をとって以降、少し心の距離をあけていたけれど。)
東京に来て以来、そこかしこで開催されている美術展に興奮し、あちこち巡っては部屋の壁をポストカードまみれにしていっている。

さて、そんな私だが、先日の山梨旅行でミレーの絵をみる機会に恵まれた。
ワインに温泉、ほうとうそれからマスカット…どれをとっても最高だったが、山梨県立美術館所蔵の『種まく人』は、特に印象的だったうちのひとつだ。

ミレーの絵は、写実主義(もっというとバルビゾン派)にカテゴライズされる。
それまでの絵画は、歴史的・神話的主題をきっちりかっちり描く古典主義や、はたまた情感たっぷりに描くロマン主義だったりと、物語性のある(それも大スペクタクルな)絵が多かった。
しかし、写実主義はそこから一転、何気ない庶民の日常を主題に描いている。
ミレーの絵が革新的だったのは、最下層の農民の姿を描いたところにある。
(宗教的な見地ではもっと読みとき甲斐のある画家なのだろうけど、そのあたりはてんでわからない)

『種まく人』は、服の裾をなびかせながら、スタイリッシュに種をまいているのだが、その顔は帽子の影にぼやけて、キリリと結ばれた口元しか捉えることができない。

私が思わず目が離せなかったのは、そこだ。
匿名性と、感情の読み取れなさ。

喜怒哀楽や、歴史的主題にのっとった物語性など一切排除し、ただ粛々と日々を営む人間の姿が、ここまで美しく描かれることがあるのかと驚いたのだ。

種をまいている間の彼は、その種がどれだけ実り、実った作物をどう利用するかなど考えていないように思えた。彼が種をまくのは、連綿と続くこの地の営みの中に自分を置くという行為に他ならない。そして、そのことに卑屈さも野心も介在しない。ぼやけた顔のもたらす匿名性は、その行為が、キャンバスに描かれた彼だけの営みに留まらないことを物語る。

「そうやって生きることに、衒いがなければいいのにな」と思った。
過去や先に答えを見出そうとすることなく、ただ、粛々と、今を生きる。それが、こんなにも清らかで美しいとわかっているのに。

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