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霧深き六甲山

 バスの降車口が開きひんやり湿った空気が肌を撫でた。霧雨の六甲山に降り立つと、池に突き刺さった逆さまの車と、そこから生える木でできた巨大なキノコが目に飛び込む。キノコはチカチカした光を放ち宇宙と交信しているようだ。突如立ち現れた夢のような光景に、私はまるで「千と千尋の神隠し」のように神々の世界に迷い込んでしまったのではないかと錯覚する。


 異様な光景の正体は、「六甲ミーツアート」という現代アート展のインスタレーションだ。六甲山では、毎年秋になるとこの展覧会が開催される。鑑賞者は六甲山に点在する観光施設を散歩しながら、道々に設置されたアートを楽しむことができる。美しい六甲山の自然と現代アートの融合を楽しめる秋の祭典は、神戸のちょっとした風物詩となっている。
 この日はあいにくの雨で遠くの景色は望めなかったが、視覚から得られる情報量が制限された状況下でかえって感覚は鋭敏になるようだった。白く立ち込めるこの結界は外界の音をも遮断するのだろうか。濡れた砂利をスニーカーが踏みしめる音を私は久々に聞く。湿った風がかすかに鳥の声を運んでくる。

 実は、六甲ミーツアートに行くのはこれが二度目だ。一度目は大学二年生の頃、当時うっすら片思いをしていた相手と一緒だった。
 彼とはこれまで数回、複数人で遊びに行ったことがあった。基本は自分のことを多く話さない彼だが、「聞き役」としての圧倒的な安心感があった。誰のどんな話にも分け隔てなく耳を傾け、その姿は肩の力が抜けていた。一つ歳下だったが、精神年齢はずっと高かったのではないだろうか。
「よかったら2人でどこか遊びに行かない?」
 勇気を出して送ったメッセージに、彼が提案してきたのは六甲ミーツアートだった。
 「現代アートが好きなんだ、なんか意外だった」「そうなんです、最近ハマってて」
 秋晴れの六甲山で、彼は普段私たちの話を聞くのと同じように、一つ一つのアートを気楽に、じっくり、丁寧にみていった。対して私は、当時全くと言っていいほど現代アートに通じていなかった。「この色かわいいね」「大きくて迫力あるね」といった素人臭い感想が今思い出すと恥ずかしい。けれど、二人で同じものを丁寧に共有し笑い合う時間は心地よかった。

 今一人、ますます濃くなる霧の中歩みを進めると、次々アート達が浮かび上がる。一人で巡るミーツアートの対話の相手はおのずと自分になる。
 木々の間から自由に伸びた針金といくつかの流木が現れる。美術館から束の間抜け出してきたアートを表現しているらしい。(仕事の緊張感から解放されて、家のソファで溶ける私みたいじゃない?)
 テントくらい大きい鉄の風船には「六甲山の空気」というタイトルがつけられている。(ソリッドな物体を「空気」って呼ぶの、なんだか不思議な感じだね)
 現代アートの良さはみえない部分を解釈する過程だとあらためて思う。思考の愉しみにどっぷりと浸りながら山道を登り、ついに最終地点である展望台に辿り着いた。螺旋階段を登り展望デッキを目指す。足音が塔に反響して二重になり、私はまた不意に過去に引き戻される。

 彼が私をどう想っていたのかは結局分からずじまいだった。
 デート前夜、もし彼も私に好意を抱いていたら…と淡い期待になかなか寝付けなかった。
 迎えた翌日、朝から晩までたくさんの会話をした。どれもとりとめのない会話だった。とりとめのない会話はあまりに楽しく、私は彼の内側を知るきっかけを投げ、そこに耳を傾けることができなかった。もったいなくもあり、怖くもあったのだ。
 会話の内容はほとんど覚えていないが、一日の終わり、展望台に登り神戸の夜景を二人で眺めた空気感だけが鮮明に思い出される。あれほど続いていた会話が不意に途絶えがちになったひととき。何も言い出せず、オルゴールのような神戸をただただ眺めていたあのひととき。

 八年ぶりに、私は展望デッキに立った。もう一度目にした神戸の景色は、霧で見えたものではなかった。
「いや真っ白すぎるでしょ」
 私は1人ごちて笑った。笑ってしまうほど白い眺めに、私はその日の昼に見たインスタレーションを重ね合わせた。
 大きな丸机に半透明のビニール袋がふんわり被せられている。机にはおそらく食器や花瓶が並べられているのだが、袋のせいで実際のところなんなのかは判別できない。作品のタイトルは「虚実の距離」。認識と存在の関係性や、認識の不確かさから生まれる思考をテーマとしている。



 細かな雨粒が織りなすビニールの向こうに、私は過去にみた神戸をみようとした。おそらく記憶の中で幾分変質しているだろうあの日のデートをなるべく鮮明に思い出そうとした。もはや知るよしもない彼の気持ちにも、思いを馳せてみた。白いもやをかき分けるようにしてみた神戸の風景は、思ったとおりに美しいのだった。

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