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エンドオブザワールド

11時ちょうど、デパートの屋上に着くと、すでに剛が待っていた。
私に気が付くと、振り向いて、口の端で笑う。姿勢が悪い痩躯、右手に下げたブランドのモノグラム柄ボストン。帰省のたびにこのバッグを持っているけれど、あんまり趣味が良くないな、と思う。

「ありがとね」
そう言って私は、五千円札を手渡す。
「いつでも良かったのに」
「忘れちゃうといけないから」
「健司と仲直りしたの?」

剛は、いつも絶妙なタイミングで声をかけてくる。私がイラッとせず、本音を思わずこぼしてしまうような控えめな声音で。
健司は私の彼氏で、大学入学してすぐ付き合いだして1年経つが、喧嘩してばかりだ。東京生まれ東京育ち、偏差値は高いが自由な校風が売りの都立高校で、男女グループで毎日のように渋谷でつるんでいた私と、北関東の男子校で勉強と野球だけしていたような健司との間には、価値観の違いなんて言葉では済ませられないほどのギャップがある。
剛と健司と私は、入学してすぐクラス分けされた英語の授業で席が横並びで、話すようになった。私に一目惚れしたという健司を剛がアシストするような形で、三人でつるむようになり、何回目かに遊びに行った帰りに告白され、付き合うようになった。
芸能人みたいにかわいいわけじゃないのに、理想の女の子だなんて言われて、私だって悪い気はしなかった。健司は真面目だし、容姿だって全く悪くない。はっきりした二重の目は、いつだってひたむきで、たかだか19の小娘が言うことでもないが、こんな純粋な大学生はなかなかいないと思う。
ただ、健司はやきもちを焼きすぎる。

剛は、本人いわく「通えないほどではない」距離にある埼玉の実家から出て来て、一人暮らしをしている。一浪していて一つ年上なだけなのに、とても大人だ。私と健司が目の前で喧嘩していても全く動じず、「俺、タバコ吸ってくるわ」なんて言って、いなくなる。それでいて、これ以上ない頃合いで仲裁してくれるので、私と健司が続いているのは、剛のおかげと言っても過言ではない。

昨日も、私達三人とゼミ仲間で飲みに行ったのだが、酒が入った健司が私を外に連れ出し、急にからんできた。私の男子への距離感が近い、あれじゃ勘違いさせてしまうと言う。よくある揉め事の火種だ。
そもそも私は、自分の人間関係と彼氏の人間関係を重ねていくことが好きではない性質だ。高校生の時も、校内では絶対に付き合わないようにしていた。健司は、そういうのも「理屈じゃねえだろ」と嫌悪感を示す。たぶん、私達は根本的に相性が悪い。それでも健司のまっすぐさは、唯一無二の輝くものだと思う。

実家暮らしの私は終電で帰ることが多かったが、この日は飲み始めが遅く、朝まで飲もうとみんな盛り上がっていたところだった。今からタクシーで帰ったら高くつくなと思いつつも、苛々しながら「私もう帰るね」と言った。
その時、剛がちょうどタバコを吸いに出て来た。
「俺がタクシー乗り場まで送って行くから、お前頭冷やしとけよ」。
大通りに出て、財布の中身が心もとないことに気付いた私の表情を素早く見て取った剛は、「いつでもいいから」と、そっと五千円札を握らせてくれたのだ。
私は、剛が次の日から帰省することを知っていた。だから、今朝メールして呼び出したのだ。実家に帰る前に返したいから、池袋に寄ってと。
オールしたはずなのに、剛からはすぐ返事が来た。健司からは何の連絡もない。

明日からゴールデンウィークで大学も休みだ。健司も実家に帰るので、昨日の喧嘩はうまくいけば曖昧に終わるし、運が悪ければメールや電話で続きがあるのかもしれない。
その時私は、独り言のようにつぶやいてしまった。

「なんで、付き合ってるんだろ」

その時、全ての音が消えた。
うわん、と空間が歪む感覚がした。
さっきまであんなに子供の声がしていたのに、音楽も流れていたのに、耳が痛くなるほど静かだ。屋上には誰もいない。ただ、私と剛以外は。
とっさに携帯の画面を見る。2002年4月28日、11時15分。特に時間は経っていないようだが、「圏外」の文字が浮かんでいる。
剛が私を見据えて言う。
「何が起きた?」
表情のわかりにくい細い目が見開かれて、動揺の色が見える。いつも飄々としている剛がこんなに慌てているのを見たのは、初めてだ。突然人が消えてしまったのだから、当然だけど。
圏外表示の携帯から通話を試みるが、もちろんつながらない。

「あ、デパートの中は?」
私が口にすると同時に、剛がさっと私の手首をつかんだ。
「行くぞ」
そのまま私の手を引いて、屋上の入り口に向かおうとする。
その力強さと、手の大きさに、私は思わずどきっとしてしまった。

そういえば私、こんなに長く一緒に過ごしているのに、剛に彼女がいるのかどうかも知らないな。初めて知り合った一年前には彼女がいたけれど、その時の彼女と別れてからは、新しく誰かいるという話は聞いていない。
アメンボみたいに細くて背が高い剛。目も細いし髪も細い。将来ハゲそうなんてゼミ仲間にからかわれているけれど、最初に会った時に私の目を引いたのは、剛の方だったんだよな…

世界が終わったかもしれないのに、一番に考えたことがそれで、思わず笑ってしまった。
次の瞬間。
また、あの立ちくらみのような感覚がして、一瞬目の前が暗くなった。

全ての音が戻っている。遊具で遊ぶ子供も、ベンチでしゃべっているカップルも、ここに来た時と何も変わっていない。
元の立ち位置で、私は剛と向かい合っていて、ショルダーバッグから取り出した携帯電話を見ると、2002年4月28日、11時16分。アンテナは三本立っている。
「じゃあ、俺行くから。ちゃんと仲直りしろよ」
今起きたことは、何だったのだろう?

「ちょっと待って」
思わず声をかけると、剛が振り向く。
私は何を言おうとしているんだろう。どうしよう。暑くもないのに汗ばんだおでこを、優しく風がなでていった。

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