失われた時を求めて
前に書いたことであるが、ぼくがnoteの記事を書くときは朝起きてからその内容を考える。そして、仕事の合間に構成を練って、仕事が終わるのを待って、帰ってから机に座り、夕方6時過ぎから8時までの間にさっと書き上げる。それを過ぎると次の日に持ち越しということになる。
時々であるが、練りに練った構成もあり、ずいぶん筆が進むことがある。気が付いてみると2000字をゆうに超えていたりなんかする(noteでは2000字前後が読みやすいとされる文章らしい(出雲太リサーチより))。
そしてそんなときに限って、最後の「青銅器の使い方」を貼り付けようとしたときに事件は起こるものだったりする。
記事が全部、消えてしまった!!
まさかnoteでこのようなことが起こるとは思わなかっただけに、驚いた。99.9%出来上がっていたのに・・・・。
「ふぅーーーーっ」と深く息を吐くと、一旦気持ちを落ち着けようとした。
ぼくらの学生の頃はこういったことがよくあった。まだウィンドウズが発売される前で、マッキントッシュがようやく常設されるようになった頃の話だ。卒論の原稿が丸々消えたなんてこともあった。よってフロッピーディスク(今はあるのかな?)にバックアップをとっておくことが必須だった。そうとわかっていれば、下書き保存をこまめに押していただろうに。
まぁ、失われたものは仕方ない。構成を何度も練っていただけに、幸い頭が覚えていて、書き直しもなんとかうまくいった。
少し遅れての更新になったけれど、消えてしまった文章とさほど違いないだろうとそのとき思った(そう、思いたい)。
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古代の地理誌「出雲国風土記」は当時の労作である。およそ20年かけて編纂されている。国の事業の一つとはいえ、大したものである。
一番最初に書かれているのは総記で、出雲国の大きさについての記述がある。簡素ながら簡潔に地形を表している。そして以下に続く。
1里は三百歩で今の長さでいうところの534.54m、一歩は1.7818mである。よって1歩は歩幅を表していないということが分かる。おそらく当時の尺度というのものがあり、それで計算していったのであろう。
それにしても、よく測ったものである。総記の後にはそれぞれの郡が続く。郡の中には郷があり、それも測量されている。いったいどういったひとびとが測量したのだろう。
古代の出雲人がみな、きっちりした人たちばかりだといいのだけど、中にはオッチョコチョイもいたりして、測量しているうちにいくらだったから忘れたりして。
そうすると、当然、初めから測り直しということになる。記事が1本飛ぶようなのとはわけが違う。途方に暮れたことであろう。そういった(おそらく)たくさんの人々の努力の結果として、「出雲国風土記」があることを思うと、なんだか伏し拝みたくなってしまう。
「出雲国風土記」の総記に続いて意宇郡がはじめにある。意宇郡の郷の最初は母理(もり)郷である。
母理(もり)の由来は「大国主命が越の八口を平定してお帰りになるときに、長江山においでになっておっしゃったことには「わたしが国造りをして治めている国は天皇が平和に世をお治めになるようお任せ申し上げる、ただ八雲立つ出雲国は、私が鎮座する国として、青く木の茂った山を垣の如く取り廻らし、玉の如く愛でに愛で正して守りましょう」といったから母理(まもる)となった」という。
出雲国風土記の初めにこう大国主命に言われてしまうと、なんだか出雲に住むわれわれにとってはなんとも心強いものがある。
大国主命は出雲大社に篤く大切に祀られている。ちなみに「出雲国風土記」は国造・出雲臣広嶋が編纂している。ふつう、風土記を編纂するのは国司であったことから、ここでも出雲の特異性が現れているといえよう。
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今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
よかったらGWに出雲大社にもいらしてください。
出雲人だけでなくあなたのこともちゃんと守ってくれますよ ♪
お待ちしています。
こちらでは出雲神話から青銅器の使い方を考えています。
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