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ヒカルド・マリオ・ゴンザルベス教授  ー正信偈ノートー 『正信偈についての考察』 源信僧都 「日本における浄土教のはじまり」     毎朝のお朝勤の後にポルトガル語の仏教書を少しづつ読みます。日本語翻訳あり。

おはようございます。 今日も一緒にお参りをいたしましょう!
Bom dia a todos! Vamos juntos rito matinal.


  1. Primórdios da Tradição da Terra Pura no Japão:
    Nos comentários de sutras atribuídos ao Príncipe Regente Shôtoku há citações do Grande Sutra da Vida Imensurável, o que atesta que o mesmo já era conhecido no Japão no século VI. No ano de 640, o monge Eon, que estudara na China, ministra na Corte Japonesa um curso sobre o mesmo texto. No Período de Nara, mais monges eruditos escrevem tratados sobre os Sutras da Terra Pura. Surgem também obras de arte de inspiração amidista. Práticas de culto e contemplação próprias da Tradição da Terra Pura, praticadas na Escola Chinesa T’ien-t’ai (Jap. Tendai) são trazidas ao Japão por Ennin e implantadas no Mosteiro de Enryakuji. Um importante propagador do Amidismo foi Ryôgen (912-985), que enfatizou a importância da prática do Nembutsu na hora da morte como garantia do ir-nascer na Terra Pura. Outro importante divulgador do Nembutsu foi Kûya (903-972), cognominado o “Santo das Ruas”, que passava seus dias percorrendo as ruas e feiras de Kyoto onde difundia a prática da recitação do Nome de Amida entre o povo.

  2. 日本における浄土教のはじまり。
    聖徳太子の経典解説には『大無量寿経』の引用があり、それが6世紀の日本で既に知られていたことを示している。640年には、中国で学んだ僧・恵隠(えおん)が日本の宮廷で同じ経典についての講義を行った。奈良時代には、多くの学僧が『浄土三部経』についての論文を執筆し、阿弥陀如来を描いた芸術作品も現れた。中国の天台宗で行われていた浄土宗独自の修行と瞑想の実践が円仁によって日本に持ち込まれ、延暦寺で確立された。浄土思想を広めた重要人物には良源(912-985)がおり、臨終時に念仏を唱えることが極楽往生の証であることを強調した。また、「路傍の聖人(市上人(いちのしょうにん)」と呼ばれた空也(903-972)は、京都の街や市場を歩き回り、人々に阿弥陀如来の名を唱える習慣を広めました。

参考  Referência



『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)は、聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』(伝 推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))の総称である。それぞれ『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経の注釈書(義疏、注疏)である。
『日本書紀』に推古天皇14年(606年)聖徳太子が『勝鬘経』と『法華経』を講じたという記事があることもあり、いずれも聖徳太子の著したものと信じられてきた。『法華義疏』のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存しているが、『勝鬘経義疏』と『維摩経義疏』に関しては後の時代の写本のみ伝えられている。
円仁(慈覚大師)(794~864)天台宗の拠点である比叡山延暦寺で浄土教の儀式を伝授する。

https://buddhism.redzambala.com/buddhism/pure-land/tannisho-and-pure-land-tradition-detailed-intro.html

恵隠
恵隠(えおん、生没年不詳)は、飛鳥時代の学僧。俗姓は志賀漢人(しがのあやひと)。
『日本書紀』巻第二十三、舒明天皇12年5月5日条


経歴
近江国(滋賀県)滋賀郡の漢人で、記録に現れるのは、推古天皇16年(608年)9月、隋使裴世清を送る遣隋使として小野妹子が再任されるが、倭漢福因・高向玄理・旻・南淵請安らとともに、これに同行し、大陸へ渡っていることである[1]。31年に及ぶ長い滞在ののち、舒明天皇11年(639年)9月、新羅の送使に従ってのちに十師の一人になる恵雲とともに帰国し、入京する[2]。翌年5月、盛大な斎会が開かれ、招請されて無量寿経を講義している[3]。
大化の改新時の白雉3年(652年)にも内裏に招かれ、1,000人の沙門(僧侶)の前でふたたび無量寿経を説いている。質問者は十師の一人とされる恵資であった。論議は6日間つづいた、という[5]。

遣隋使 第三回(608年)以降
裴世清を送って小野妹子が再度派遣された。この時は多くの留学生を引き連れ、その中に、高向玄理、南淵請安、僧旻、倭漢福因、恵隠らがいて彼らは隋の滅亡と唐建国を体験し、帰国後に7世紀後半の倭国の改革に貢献する[16]。614年最後の遣隋使が派遣される。
612年から614年にかけて隋は高句麗に出兵するが、1回目で大敗し、戦費兵役負担から、次の2回にわたる遠征の最中に隋国内で反乱が起こり、618年に煬帝は殺害され隋は滅亡し唐が成立した。

まとめ 報告

ヒカルド先生は聖徳太子の経典解説(おそらく『三経義疏』のこと)のテキストには『大無量寿経』からの引用があったり西方浄土についての記述があるとの指摘のようです。それが6世紀の日本で浄土教が既に知られていたことを示しているという根拠でした。

また。恵隠(えおん、生没年不詳)は、飛鳥時代の学僧。俗姓は志賀漢人(しがのあやひと)
が存在しておりました。第3回目の遣隋使の一人として選ばれています。日本書紀に記されているのが根拠となっています。遣隋使として小野妹子が再任されるが、倭漢福因・高向玄理・旻・南淵請安らとともに、これに同行し、大陸へ渡っていることである。31年に及ぶ長い滞在ののち、舒明天皇11年(639年)9月、新羅の送使に従ってのちに十師の一人になる恵雲とともに帰国し、入京する[2]。翌年5月、盛大な斎会が開かれ、招請されて無量寿経を講義している。
大化の改新時の白雉3年(652年)にも内裏に招かれ、1,000人の沙門(僧侶)の前でふたたび無量寿経を説いている。質問者は十師の一人とされる恵資であった。論議は6日間つづいた、という

ということで、ヒカルド先生のテキストはこれらを元に書かれておりました。

真宗研究14号 009山崎慶輝「親鷺の太子鐙仰における基盤」.pdf


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