のゑ女についてのゑは旧丹生郡持明寺村(現鯖江市吉川町)出身の人で、第二十世善雲上人の息女の乳母として仕えていました。 文化5(1808)年11月17日(新暦 12月21日)、雪が積もった朝、境内で二人の姫と遊んでいたところ、傷を負った大きな猪が境内に侵入し、突如襲いかかってきました。のゑは二人の姫をつつじの大株の下に押し込め、自らは身を挺してこれを遮り「汝我を殺すとも姫に傷くることなかれ」と叫び、渾身の力で押し留めたのです。左手で耳を、右手は猪の口の中に手を入れ舌を掴み、必
御正忌報恩講 11月22日~28日 大寄り 8月27日~28日 夏期講習会 7月20日~21日 暁天講座 7月1日、2日 総永代経 6月9日 墓参会 8月8日 春季彼岸会 3月17日~23日 秋季彼岸会 9月19日~25日 毎月19日 前ご門主御命日逮夜 毎月27日 親鸞聖人御命日逮夜
7月22.23日の両日 赤松徹眞先生を御講師にお迎えして、夏期講習会を開きました。 老若男女問わずお参りいただき、ありがとうございました。
3月26日 仏教婦人会の追弔会、総会が御影堂にて行われました。 昨年はコロナウイルス対策のため、追弔会を4月に延期し、役員のみの参列でした。 今年は半日開催とはいえ各支部から満堂の参拝者が集まり旧交を温めました。 記念法話は宏林晃平様より 讃題『生死の苦海ほとりなし』のお話をいただきました。
3月23日に京都 西本願寺で真宗教団連合合同法要が執り行われました。
写真右から 味真野のみ寺のもみぢこれもまた人を摂めて光にぞ置く 与謝野寛(鉄幹) 毫摂寺東大門の尊けれ朱金の葉など山風が撒く 与謝野晶子 夕月の光の如くほの青くきよきみ寺の石の路かな 与謝野晶子 味真野の大寺の木のみな高し金光明と見るもみぢかな 与謝野寛(鉄幹) あなかしこ聖衆の如くもろもろの木の紅葉する毫摂寺かな 与謝野晶子 ちりそめぬ閻浮壇金のはしらをば御堂に添へし銀杏なれども 与謝野晶子 味真野の銀杏のもみぢ日を通しわが依る石にこほろぎの啼く
御影堂では彼岸の中日を迎えましたが、阿弥陀堂では毎年3月21.22日は太子講が勤まります。 今年の太子講のあと、太子像は龍谷ミュージアムに出張します。 普段は扉を閉じ公開されない太子像が見られる貴重な場です。4月1日からの龍谷ミュージアム特別展に足をお運びください。
広島から合唱団 コール・スガンディが来山され、毫摂寺合唱団と交流しました。 素敵な歌声をありがとうございました。
新年のご挨拶を申し上げます。 2023年は立教開宗800年、親鸞聖人お誕生850年の年です。 真宗出雲路派としての記念法要は令和8年春に予定しています。 記念法要に向けて土台を固める一年にしていきたいと考えています。 本年も宜しくお願いします。 〇親鸞聖人御命日逮夜法要 法役 (毎月27日 14時勤行) 1月 宗務長 茨田 宣丸 師 2月 善福寺 畑 結樹 師 3月 善法寺 徳山 正 師 4月 善玖寺 正彌 文秀 師 5月 覚円寺 友金 重道 師 6月
7月23日、24日と夏期講習会を行いました。 浄土論、願生偈をしっかり学びました。 尾畑先生 ありがとうございました。 ご参加の皆さま、ありがとうございました。 毫攝寺HPに戻る
それぞれの聖教の解説についてはwikiarc:浄土聖典目次が詳しいです ○真宗出雲路派宗制第9条より 1.浄土三部経 仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう) 康僧鎧(こうそうがい)訳 仏説観無量寿経 (ぶっせつかんむりょうじゅきょう) 畺良耶舎(きょうりようやしゃ)訳 仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう) 鳩摩羅什(くまらじゅう)訳 2.七高僧の論釈 【龍樹(りゅうじゅ)造】 十住毘婆沙論(じゅうじゅびばしゃろん
帰敬式(ききょうしき)とは、いわゆる「おかみそり」の事で、仏、法、僧の三宝に帰依し、仏弟子としての自覚をもって歩むことを誓う儀式であり、生きている間に頂くのが本来の姿です。 帰敬式は、毎月28日 午前11時より本山で行われます。 お申込につきましては原則として末寺を通し、1ヶ月前までにご連絡下さい。(諸事情により、お急ぎの場合には直接本山に問合せいただいても結構です。)帰敬式の詳細につきましては、お申し込み後、本山より通知が送付されます。 帰敬式を受けますと「釈○○」と
昭和8年11月11日、与謝野鉄幹・晶子夫妻が当山を訪れ、晩秋の一日を過ごしました。夫妻は半切8枚、色紙3枚、短冊数葉に歌を書き残しています。 24世善解上人は与謝野夫妻を歌の師と仰いでいました。報恩講で上京した際、毫摂寺東京別院の門徒、竹内宇助氏が経営する赤坂六本木のすっぽん料理店に、与謝野夫妻がよく訪 れていることを聞き、縁を取り持つように依頼したのでしょう。 尊敬する夫妻を前に善解上人は何とか筆の跡を残してほしかったのですが、晶子女史はしきりに「お上人さま」と呼びかけ
聖徳太子16歳の頃、用明天皇の喪中に孝養のために彫られたものといわれます。 物部守屋の大連は三宝を嫌い、聖徳太子の仏法を取り入れることに反対しました。そこで太子は蘇我馬子と力を合わせて戦います。その際、陣中にはこの尊像を安置されたといいます。 多勢に無勢で三度敗れた太子は都に戻り、守屋の兵は陣中に乱入して尊像を奪おうとお袖に手をかけたところ、不思議にも隻袖を残して飛び去られ、太子の前に現れ「汝の志願、今正に満足すべし」と告げられました。太子は欣然として出陣され、ついに守屋軍