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AIと文章力を競ってみた

人工知能の発展はめざましいもので、現在では人間のものと見分けのつかないような文章を作成するものまで登場しました。公開されている言語モデルを借用すれば個人でもこのようなAIを使うことが可能です。

今回は専門的な話題よりも実際に出来上がった文章に注目していただきたいので、プログラムのリンクのみを掲載しておきます。こちらからColabのページを閲覧できます。

元になる文章について

私は以前エンタメと芸術の関係について文章を書いたことがあります。今読み返すと色々と不足はありますが、それでも自分としては考えを持って書いたものでした。

今回はこの書き出しにあたる部分をAIに読み込ませ、その続きを描いてもらう形で文章を生成しました。引用部分から下がAIが書いたものです。


エンタメとアート

美は常に人間の目標の一つでした。数多くの芸術家や哲学者が生涯を捧げ、今も多くの人々が立ち向かっていることでしょう。しかこれと近いものに心地よさ、快楽といったものがあります。美をもたらすのが芸術だとすならば、単なる快楽を与えるものは娯楽と言ってよいでしょう。 娯楽、英語で言うところの「エンターテイメント」は日本では略されて「エンタメ」と呼ばれることもあります。芸術と娯楽は同じ場面で使われることがあります。例えば、この映画が芸術なのか、単なる娯楽なのかという批評家のコメントを目にすることがあります。この二つはどう区別すればよいのでしょうか。

AIに入力した部分。ここから先は自動生成


このような文脈でも美と快楽は混同されることがままあります。しかし、芸術には実用的な価値が無いと考える人もいます。それでは、そのどちらも味わうことのできる芸術とは何なのでしょうか。 それは優れた芸術作品に感じることができる感情です。心に平安を与えてくれたり、考え方のヒントを与えてくれたりするような、私たちに喜びを与えてくれるものこそが、芸術と呼ぶのにふさわしいものです。

また、芸術とされるものに、大きく二つに分けると古典的、民族的に長く重んじられるものと、それに対比して現代的な創造性や美意識でつくられるものとがあります。それに対比して、娯楽とは作り手側のちょっとした遊び心や華美さを指して使われる用語になっています。

およそ芸術と娯楽の大きな違いは、鑑賞する側にあるといえます。芸術作品は完成した時点から鑑賞することに価値があるといえます。完成には長い年月を要します。鑑賞することで鑑賞者の人生に影響を与えることもあります。娯楽では、より早く多くの刺激を得ることができます。

芸術で感性を研ぎ澄まし、遊び心は娯楽によって育むのがよいとされているのです。 芸術と娯楽の境目をよく考えてみるとおもしろいかもしれません。芸術作品には鑑賞に時間を要するものが多く、娯楽作品にはそれらにはない即時性、明確さ、分かりやすさといった傾向があります。

芸術には価値もあれば欠点もあります。それを感じることで人は人としての能力を試されているようなものなのかもしれません。 作品は完成した時点で終わりだと思われがちですが、決してそのようなことはありません。数多くの作品が世に出て忘れ去られていきます。しかし、現代では再評価されるような名作、傑作は多いのです。

美も快楽も同じく無限の可能性があります。芸術と快楽は別物だと考えるのではなく、人は優れた芸術を生み出すと同時に、優れた快楽も生み出す能力があるのだという点に目を向けてみるのもよいかもしれませんね。

芸術と娯楽の線引きが曖昧になりつつある


現代は芸術が社会から大きな評価を得る時代に突入してきました。アニメーションや漫画、ポップカルチャー、ゲームや映画など様々な表現方法が私たちの生活に浸透し、人々の生活に潤いをもたらしています。

ジャンルも細分化して、様々な分野で芸術家を生み出しています。以前と比べて芸術に対する世間の見方も変わりつつあるかもしれません。エンターテイメントの分野では話題になることが多い一方で、芸術の分野では評価されないというような風潮も一部でささやかれています。 しかし、この芸術と娯楽の線引きの曖昧さこそが芸術作品の面白いところだとも言えます。

一口に芸術作品といっても、その芸術が果たして多くの人に受け入れられるのか、そして賞賛されるのかを芸術の担い手が分からないのは当然かもしれません。また、才能のある芸術家にしかできないような芸術作品も存在します。そう考えると、芸術に対して社会からの風当たりが多少キツくなっているのは仕方がないことなのかもしれません。

芸術家と製作者の間に位置する境界線が曖昧になれば、より幅広い作品が世の中に発信されるようになっていきます。芸術をより多くの人に受け入れられる形で世に知らしめることができるようになるのです。芸術作品がきっかけとなって新しい芸術ジャンルが生まれる可能性もあります。優れた芸術家をより多くの芸術家と共有することで、芸術の普及を推し進めることができると考える人もいるでしょう。

今回は芸術と娯楽について考えてみましたが、芸術と快楽は近しい概念を持つものだと思います。しかし、果たしてそれが本当に互いを満たす良いものだと言えるでしょうか。芸術と娯楽の見境が曖昧になっている現代において、この両者をどのように付き合えばよいのか、今後、芸術界に携わる人は真剣に考える必要が出てくるのかもしれません。



結果を見て

以上がAIの書いた文章です。機械が自動で作り出したものだと判別するのは難しいほどには質が高いということがわかっていただけるかと思います。私自身が書いた文とどちらがよいか、ということについてはみなさんの判断に任せるとしましょう。

文字数だけで考えるなら、現在のプログラムでも5分あれば1000文字ほどの記事を生成することが可能です。内容で差をつけられるとはいえ、文章を書くことを生業としている人には厄介な競争相手ができたといってよいでしょう。

斎藤美奈子の『文章読本さん江』という本の中で「文章のプロ」の「プロ」を「プロレタリアート」と捉えていましたが、そのような単純な労働力は他と同じく機械に取って代わられるのかもしれません。

書類や公的な文書など形式の定まった文章ならいずれ人間が手を煩わせることもなくなるでしょう。商品の紹介文なども同じようなものです。

機械のような過去からの類推では捉えられないものといえば、考えられるのは芸術における美や繊細な感情でしょう。

「なぜ、私は移ろい易いのですか。おお、ジュピターよ」と、美が尋ねた。
「移ろい易いものだけを美しくしたのだ」と、神は答えた。

ゲーテ『四季』夏の部より

しかし、移ろい易く、はかないものを追い求める人間が機械より「優れて」いるかは別の話なのです。


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