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夜明け前の回想

目が覚めたのに夜だった。疲れて身支度もそこそこに寝たからか、中途半端な時間に起きてしまったらしい。仕方ない、と諦めて早起きをすることに決めた。考えごとをするには朝がいいと聞く。素晴らしいアイデアでも降ってくるかも、と自分を言いくるめて散歩に出かける。

夜明け前の東京は人が少ない。繁華街なら様相は違ったかもしれないが、控えめなこの町では、車は目にしても誰かとそれ違うことはない。湿った空気のせいか、街並みは薄くぼやけている。今日は雨だろうか。

早朝なので店は閉まっている。24時間営業している店舗も少なくなってきた。人通りの少なさを考えると納得である。考えてみると、年中無休で頑張るほどの余地は元からなかったのかもしれない。

都会というのは、その気になれば何にでも手が届いてしまう。流行りの食べ物はもちろん、家具や服、よりどりみどりだ。もっとも現代では都会に限らない。地方でもオンラインを活用すれば、離島でもない限りはこの充実を再現できる。映画やドラマも配信されているから、娯楽にも困らない。

現代の生活は思っているより贅沢なのだろう。しかしなんとなく満足できない部分があるように思う。親から見当外れのプレゼントをもらったような気分である。確かに嬉しいし、ありがたいことだと理解はしている。ただ心のどこかで自分が欲しているものとは異なる、と気づいてしまっているのである。

洋食から中華料理、なんでも選んで食べられるのに、さて最後に心から感動した食事をしたのはいつだろうか。コンテンツは追い切れないほど追加されたが、人生を変えてくれる名作に出会ったのはいつだったか。欲しかったものは、必要なものだったのか。

あれこれと考えているうちに、駅に近い通りまで来てしまった。そろそろ引き返そうとしていると、人通りが増えている。始発に乗る人たちだろうか。

昔見た広告のコピーに「世界は誰かの仕事でできている」というのがあって、妙に心に残っている。あの駅に向かう人々はもちろん、彼らを運ぶ電車を一本動かすだけで何人の人が関わっているのだろうか。

それだけではない。来ている服や靴、食べ物も自分が関わったものではない。手に入れて消費するまで、全て人任せである。今でさえこうなのだから、お金さえあれば息をすること以外は他力本願で生きられるかもしれない。それでも今感じている漠然とした不満は消えないだろう。

自給自足の生活でもすれば多少は変わるかもしれない。いわゆる「ていねいな暮らし」という言葉もこういった感情から生まれたのだろうか。手間をかければ、昔の「自然な」生活に帰れば苦労と引き換えに達成感が得られる。

もっとも、私は簡単に自然に帰れるほど強い人間ではない。半端なていねいさを考えたところで、半端な結果しか生まれないだろう。結論が出ないので、もう少しだけ歩くことにした。

よく訪れる書店の前を通り過ぎる。ここで買った『ツァラトゥストラ』はお気に入りの一冊である。思えば、主人公ツァラトゥストラも山を降りて街へ
教えを説こうとしていた。

この賢者は、冒頭で自分と似た来歴ながら山に残ることを選んだ隠者とすれ違う。思想的にも一種の決別に読める部分である。物語の展開上、本のはじめに置かれたことは不自然ではない。しかし、読者に最初に突きつける内容としては挑戦的である。

この冒険はニーチェの生きた近代の悲痛な名残かもしれない。そしてそれは未だ癒やされてはいないのだろう。私は賢者ではないが、やはり答えを出すなら街の中でなければならないと思う。しかし、どうやって?

懲りずに歩き続けていたとき、上から何か降ってきた。雪にしては大きく、人工物のように見える。面食らっていると、その正体が分かった。どうやらカラスがゴミか何かを運ぶ途中で落としたものらしい。固まっている私を尻目に、カラスはそれを再び拾って飛び去ってしまった。

きっと巣の材料にするのだろう。あの鳥たちは人間の苦悩の産物をうまく利用して楽しくやっているらしい。そう思うと、急に今までの問題が小さなものに感じた。何も解決してはいないが、カラスのように気楽に生きるのも悪くない。自然に帰らずとも、街と折り合いはつけられる。

空を見上げると、夜明けが近づいている。インスタントコーヒーと食パンはあるから、朝焼けを見ながらの朝食には間に合う。贅沢すぎるかもしれないな、と思いながら帰路についた。



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