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散歩をする推し、ライブをする推し、家を作る推し

推しがバランスをとろうとしている気がする

質感のないコンテンツはときに私たちに現実世界に逃げ場を提供してくれたり、それを媒介に質感のある関係性を作り出したりしてくれます。


じゃあ、質感のないコンテンツを作ることが人生の重要な要素となっている推し自身は?
逃げ場を作るとしたら、逆に現実世界がそれになるのかも知れません。

私の推しYouTuberの一人は定期的にデジタルデトックスをしますが、多分そういうことなんだろうと思います。
無意識に心がバランスをとろうとしているのでしょう。

その相方さんは一時期、頻繁に散歩をしていたようです。(今もしているのかな?)
近所の散歩には目新しいものなんてないのだから、季節や天候、それから自分の体調みたいな、コンテンツとはかけ離れたものが体験として抽出されてくるはず。
それもある種のバランスの取りかたなのかもしれません。


推したちはしばしば、「休みをとって何かしたいとは思うけど、ついそのときもカメラを回してしまう」と言います。
すべてがコンテンツになる世界に生きていると、自分自身の軸とコンテンツとしての自分の線引きが難しくなるのかもしれません。

そんな中で最近、推したちが「動画にしない趣味」を始めたとか始めようとしているとか言います。
「いつかお見せできるときが来たら」と言ってそれが何であるかは語りません。ファンに聞こえるところで言及するとそれはコンテンツの一部になってしまうからでしょう。

とても健全で、良いことだと思います。

推したちよ、どうか心身ともに健康であってください。


そしてまた別の推したちは、YouTubeというフィールドのほかに音楽やお笑いのライブを精力的にやっています。
ファンと場を共有することによって生まれる、動画配信に比べてはるかに質感のあるコンテンツ。
もしかしたらこれも、推し自身にとっても良いバランスになっているのかも知れません。


さて、推しの一人は、何年か前から駆け出しのクリエイターが切磋琢磨しながら独り立ちを目指すシェアハウスを運営しています。
「場」を作るというのは、質感のあるコンテンツとして究極のものだと思います。物質世界から逃れられない。
それは基本的に、ファンではなくそこで暮らす若手クリエイターたちが享受する質感です。シェアハウスでも動画コンテンツは作られていますが、そこは多分「場」のメインではない。
もしかしたらそのシェアハウス運営もYouTubeという質感のないコンテンツをメインの仕事としている人にとって、1つのバランスの取りかたなのかもしれません。


身体性とは、時間の有意義な無駄なのかもしれない

タイパ(タイムパフォーマンス)を重視する推したちが、散歩やデジタルデトックスみたいな一見時間の無駄に見えることをするのは、そういう無駄(に見えるようなこと)が人間には必要だということなのだと思います。
心のバランスをとるためには、明示的でわかりやすい意義みたいなものから、時々離れないといけないのかもしれません。

それはとても無駄に見えますが、そう見えるのは自分の中心にあって他人には必ずしもその意義が伝わらないものだから。
この記事でも書いたとおり、かけがえのないものほど他人には理解されないものだということなのでしょう。

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