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北見薄荷の人文科学(2);知的魅力満載の北見ハッカ産業史概略(大正)

 大学基礎化学実験のもつ文理融合のポテンシャルについての私の考えは後に回し、その前段階として、北見薄荷のテーマがどういう文理融合を示し得るのかをお伝えしたいと思います。今回は大正時代に起きた事件を。

(「」内は北見薄荷工場十五年史、昭和24年からの引用)

1.農家の救済へ

 「この惨状を見て立ったのが上湧別村長兼重浦次郎であった。氏は横浜地方の相場の高いのにかかわらず意外に協定値が安く、薄荷の相場の理なきことに大いなる疑問を持ち、」(途中略)「北見の特産物を農会で一まとめにするから大商人を探してくれと(神奈川県知事に)依頼した結果、ロンドンのサミュエル紹介横浜支店を紹介された」。
 これによってサミュエルと生産者代表の間に行って10月30日に委託販売の契約が調印されたそうである。つまり大手商社の仲買人を締め出すためにサミュエル紹介と独占契約を結ぶことになった。

2.救済策は泥沼へ

 秘密協約は組九円(薄荷の取引価格、1組あたり9円。協定値は三日すぎたので七円八十銭であった)とのことであるが、「ところがはやくも十一月一日には、この秘密協定が鈴木(協定側)の察知するところなり、たちまち乱戦となり僅か三日間に九円から十五円三十五銭までぶり上げてしまった」。
 つまりサミュエル商会との密約をいち早く察知した協定側が、破格の高値で農家を誘惑して、協定に売らせないよう仕掛けたということである。

 大正4年12月15日、サミュエル商会は農家969軒に対し訴訟を起こし、第一審は敗訴、二審の途中で関東大震災が発生して書類を喪失し裁判が立ち消えになったと言われているそうである。

 この一件はその後百姓一揆のような空気になり、大正3年に十組三円という「薄荷の相場でおそらくは最底のもの」になり、しまいには道庁、道農会も薄荷を危険作物として、栽培推奨すら敬遠するような態度をとるに至った。




 


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